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★ あわじの のしまのさきの はまかぜに いもがむすびし ひもふきかえす
★ 妻が旅立ちの時に、無事に再会することを祈って結んだ羽織の紐が、淡路の野島の岬の浜風
に、「無事ですか・あなたを想っています」という心を載せて吹き返すことです。
巻3-251 柿本人麻呂
今は昔、その当時は、旅立つ事は、死をも覚悟する事であったから、夫婦も恋人も下着を交換し
合ったり、お互いの最も大切なものを交換し合ったりしたのです。
今でも、大好きな人が忘れていったマフラーをその人と思って抱きしめたりするシーンが
ドラマなどでありますよね。そういう気持ちってみんな持っていると思います。
また、結ぶ・・・というのは特別な意味合いがありました。
やはり、愛する人と結ばれる・・・というように、現代でも生きている大和言葉の一つですね・・・
夫と妻は、恋人同士は、肉体は離れていても、心は結ばれていて解かれる事はない・・・
その思いが風に載って、通じてくる・・・きっと、妻も風に吹かれながら、同じ思いでいることだろう
★ あらたへの ふじえのうらに すずきつる あまとかみらむ たびいくわれを
★ 粗い布を織る藤江の浦で、鱸を釣る漁師と見るのだろうか・・・旅する私の事を・・・・
巻3-252 柿本人麻呂
旅の疲れが見た目にも心や体にも出てきたのでしょうか・・・旅をする自分の、やつれた姿を
人は何と見るだろう・・・「あまとかみらむ」という表現は、「あまとやみらむ」とも違います。
前半は「どのようにみえるんだろう」という、どうでもいいようないいようのない疲れを感じますが、
「あまとやみらむ」だと、どのように見えるだろう・・きっと、やつれ果てて見えるのだろう・・・という
感じになります。
主体的でない表現が旅の疲れや心の寂寞感をさらに、募らせます。
★ たまもかる みぬめをすぎて なつくさの のしまのさきに ふねちかづきぬ
★ 美しい藻を刈るという敏馬(みぬめ)を通り過ぎて、夏草の繁る野島の崎に舟は近づきます。
巻3-250 柿本人麻呂
敏馬(みぬめ)は、見ぬ女(みぬめ)とも、言われる・・・また、ある本では、美しい藻を刈る処女の地
である敏馬(みぬめ)を過ぎて、、夏草の繁る野島の崎に舟は近づいた・・・とも、あります。
また、刈る・・・ということばは、異界に属する呪力あるものを手に入れること・・・とも言われています。
珠,玉・・・のような、美しい藻・・そして、処女(おとめ)とは、異界に通じるとも思われています。
昔の船旅は命がけですから、自然に対する畏怖から様々な呪力あるものに、信心する気持ちから
このような歌が歌われたのではないでしょうか???
★ 御津の崎 波を恐み 隠り江の 船なる君は 宣らす野島に
★ みつのさき なみをかしこみ こもりえの ふねなるきみは のらすぬしまに
★ 御津の崎の波が恐ろしいので、奥まった入り江に待機している船の主人は宣言なさった。
「さあ、野島に」と。
多田一臣版によるもの
■ 御津の崎 波を恐み 隠り江の 舟に公宣る 美奴の島へに
■ みつのさき なみをかしこみ こもりえの ふねにきみのる みぬのしまへに
■ 御津の崎の波が恐ろしいので、入り江の舟で君は祈っている。 美奴の島に。
中西進版によるもの
他にも、いくつも解釈がありますが、第4,5句の「舟公宣奴嶋尓」の解釈が難解とされているようで
す。私は、入り江は奥まってい波を避ける場所ですから、その入り江で島に渡れるように舟の主
人が祈っているというのが、自然かなと思います。
● 御津の崎の波が恐ろしいので、入り江で舟の主人は祈っている、島に渡れるようにと・・・・
辻 友子版によるもの??
自然が恐ろしい時には祈るしかありません。