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代表を務めさせていただいている
「国際ボランティア テラの会」は、
5月14日から、フィリピンのミンダナオ島へ、
戦没者追悼慰霊と
生活用品、食料手渡し支援に行っています。
14日から17日は、カガヤン・デ・オロにて、
支援と戦没者追悼慰霊を行いました。
カガヤン・デ・オロを問わず、フィリピンには
第二次世界大戦で、多くの日本兵が戦死しました。
その数は32万人に上るといわれています。
フィリピンのルバング島で、戦後29年目に
日本への帰還を果たした、小野田少尉の事も、
記憶に鮮明に残っていらっしゃることでしょう。
戦争の爪あとと簡単に言えない事を、
「戦争」と言うものは、残しているのだと、
戦後育ちの私は思います。
カガヤン・デ・オロは、豊かでない町でした。
フィリピンの最大の島、ミンダナオ島の北部の町です。
今回は、円安もあり、緊縮財政の「テラの会」にとって、
辛い旅です。食料は、現地調達です。
少なくとも、「テラの会」が、出会うことが出来た
ストリートチルドレンや貧民の子供達に、
十分な食料支援が出来ませんでした。
今日の食べ物すら、無い子供達が沢山
いるのです。水と日持ちする食料やカップ麺
を、渡したいと思います。しかし、円安で値段が
跳ね上がっているのです。
「自分が、今出来る事を、継続する」
と言う、
基本理念のテラの会ですが、正直に言うと、
もっともっと、支援をしたいです。
ダバオの話にまで、行き着きませんでした。
次回に、続きます・・・・・
「国際ボランティア テラの会」は、
5月14日から、フィリピンのミンダナオ島へ、
戦没者追悼慰霊と
生活用品、食料手渡し支援に行っています。
14日から17日は、カガヤン・デ・オロにて、
支援と戦没者追悼慰霊を行いました。
カガヤン・デ・オロを問わず、フィリピンには
第二次世界大戦で、多くの日本兵が戦死しました。
その数は32万人に上るといわれています。
フィリピンのルバング島で、戦後29年目に
日本への帰還を果たした、小野田少尉の事も、
記憶に鮮明に残っていらっしゃることでしょう。
戦争の爪あとと簡単に言えない事を、
「戦争」と言うものは、残しているのだと、
戦後育ちの私は思います。
カガヤン・デ・オロは、豊かでない町でした。
フィリピンの最大の島、ミンダナオ島の北部の町です。
今回は、円安もあり、緊縮財政の「テラの会」にとって、
辛い旅です。食料は、現地調達です。
少なくとも、「テラの会」が、出会うことが出来た
ストリートチルドレンや貧民の子供達に、
十分な食料支援が出来ませんでした。
今日の食べ物すら、無い子供達が沢山
いるのです。水と日持ちする食料やカップ麺
を、渡したいと思います。しかし、円安で値段が
跳ね上がっているのです。
「自分が、今出来る事を、継続する」
と言う、
基本理念のテラの会ですが、正直に言うと、
もっともっと、支援をしたいです。
ダバオの話にまで、行き着きませんでした。
次回に、続きます・・・・・
到着した大学では、若者達が5名が待っていてくれました。
全ての手配は、今回M氏のご協力によるものです。
学生達とともに、衣服を丁寧に仕分けしました。
本当に必要な人に、必要な物を手渡しするためです。
ここ、カガヤン・デ・オロでは、2メートル以上の洪水で
全てが流されました。
勿論、国連や大きな団体からの支援はあったでしょうが、
何故か、本当にそれが必要な貧しい人たちには渡らないのです。
世の常と言うものでしょうか・・・・
テラの会はいつも、国旗を持参します。
「日本からのプレゼントです」といって
お渡しします。
クリフォード氏や、若者達が、国旗を見て
どんどん集まってきた子供や大人を
並ばせました。混乱するからです。
一人一袋と言う事で、渡していましたが
抑えがきかず、奪い合いも発生しました。
あっという間に、船便と自分達で持ってきた
衣類は無くなりました。
この「手渡し」と言う「行為」は、一番確実だと、
その国の方からよく言われますが、
大変疲れる作業でもあります。
政治レベルでは、この方々の手には
渡らない・・・しかし、我々だけの作業と、経済では
これが限界です。とても残念に思います。
全ての手配は、今回M氏のご協力によるものです。
学生達とともに、衣服を丁寧に仕分けしました。
本当に必要な人に、必要な物を手渡しするためです。
ここ、カガヤン・デ・オロでは、2メートル以上の洪水で
全てが流されました。
勿論、国連や大きな団体からの支援はあったでしょうが、
何故か、本当にそれが必要な貧しい人たちには渡らないのです。
世の常と言うものでしょうか・・・・
テラの会はいつも、国旗を持参します。
「日本からのプレゼントです」といって
お渡しします。
クリフォード氏や、若者達が、国旗を見て
どんどん集まってきた子供や大人を
並ばせました。混乱するからです。
一人一袋と言う事で、渡していましたが
抑えがきかず、奪い合いも発生しました。
あっという間に、船便と自分達で持ってきた
衣類は無くなりました。
この「手渡し」と言う「行為」は、一番確実だと、
その国の方からよく言われますが、
大変疲れる作業でもあります。
政治レベルでは、この方々の手には
渡らない・・・しかし、我々だけの作業と、経済では
これが限界です。とても残念に思います。
テラの会一行は、本日9時半にホテルを出発、
現地では有名なキャピトル ユニバースィティに
ジープに支援物資を積んで持って行きます。
そこで、M氏のご協力により、、お手伝いいただけることに
なった、大学生達と、支援物資の仕分けを行います。
その後、クリフォード氏のご家族も被害にあわれた
カガヤン・デ・オロ一帯を、支援の為に廻ります。
今回は、円安の為に、100円で買えていたものが、
200円近くなり、財政難の中の活動を続けている
「テラの会」としては、非常に大変で残念です。
何故なら、ストリートチルドレンや被災者に手渡し
するための食料は現地調達である為、買える食糧
が、減るからです。
とにかく、本日は昼から、支援に廻り、その後、
戦没者の追悼慰霊を行います。
現地では有名なキャピトル ユニバースィティに
ジープに支援物資を積んで持って行きます。
そこで、M氏のご協力により、、お手伝いいただけることに
なった、大学生達と、支援物資の仕分けを行います。
その後、クリフォード氏のご家族も被害にあわれた
カガヤン・デ・オロ一帯を、支援の為に廻ります。
今回は、円安の為に、100円で買えていたものが、
200円近くなり、財政難の中の活動を続けている
「テラの会」としては、非常に大変で残念です。
何故なら、ストリートチルドレンや被災者に手渡し
するための食料は現地調達である為、買える食糧
が、減るからです。
とにかく、本日は昼から、支援に廻り、その後、
戦没者の追悼慰霊を行います。
畏れ多くも、私が代表を務めさせて頂いております、
「国際ボランティア テラの会」は、昨日早朝、出発、
夜遅くに、フィリピン、ミンダナオ島の
カガヤン・デ・オロになんとか到着いたしました。
今回はのっけからアクシデントに見舞われたのです。
その話は、主宰者である木村氏が帰国されてから、「旅日記」に
綴られることでしょう。
今朝のお電話では、まだ、解決していないらしいです。
テラの会の旅としては、非常に珍しいことです。
さて、日本のM氏のご尽力により、今回も、
様々な手配が行き届いております。
ご紹介いただいた、クリフォード氏の温かいお出迎えを受けて
無事、ホテルに到着です。
最初のホテルは、900ペソ、現在は円安で
日本円の価値が、3分の2になっており、
緊縮財政の テラの会としては、非常に
苦しい旅となりそうです。
それで、850ペソのダウンタウンのホテルに
移りました。
クリフォード氏自身、台風の被害を受けて
何とか、助かった方です。
1200人が死亡し、200万人が被災に遭いました。
未だに、多くの人々が
食べ物、着るもの、勿論お金も不自由しているそうです。
テラの会が、船便で送った支援物資と自分達で持っていった
支援物資も、きっとあっという間に、無くなることでしょう。
こういうとき、ドラえもんのどこでもドアがあったらなぁ・・・と、
つくづく思います。次から次と、衣服やタオルを持っていけますから・・
船便で一箱送るのもお金がかかります。
人一人が担いで持って行くのも、お金が掛かります。
テラの会が、必ず行き着く問題・・・・それでは、お金をぽんと
渡せばよいかと言うと、けして、そうではない・・・・
テラの会の、基本理念「手渡し」は、変えてはいけない、と
思うのです。
ご協力頂ける一人一人の方が、
自分の意志で、
自分の出来うる範囲で
自分が納得できる援助をする、
これも、テラの会の「基本理念」です。
どういう形であるにせよ、自分の意志で
「する」のであって、「してあげてる」わけでも
「させられている」わけでもない。
これは、とても大切な事だと思います。
例えば、一つの例をあげるとすると、
母と子にしても、傍から見れば
母親が子供の世話をしている。
しかし、母親は子供の世話をすることで、
それが生きる糧となる。
人間の関係と言うのは、どちらか一方が
お世話をしているように見えて、実は
お世話をしている方が、その自分の行為に
支えられている・・・と言う事が間々あります。
私たち自身、皆様に分かりやすい様に、
難民支援と一応銘打っておりますが、
自国の勿体無い捨てるに忍びないお洋服やタオルを
「宜しかったら、お使いください」と言う気持ちで
持って行きます。
偶々、日本人に生まれ、
今平和の中で暮らしているだけで、
同じ人間同士なのですから・・・・。
「国際ボランティア テラの会」は、昨日早朝、出発、
夜遅くに、フィリピン、ミンダナオ島の
カガヤン・デ・オロになんとか到着いたしました。
今回はのっけからアクシデントに見舞われたのです。
その話は、主宰者である木村氏が帰国されてから、「旅日記」に
綴られることでしょう。
今朝のお電話では、まだ、解決していないらしいです。
テラの会の旅としては、非常に珍しいことです。
さて、日本のM氏のご尽力により、今回も、
様々な手配が行き届いております。
ご紹介いただいた、クリフォード氏の温かいお出迎えを受けて
無事、ホテルに到着です。
最初のホテルは、900ペソ、現在は円安で
日本円の価値が、3分の2になっており、
緊縮財政の テラの会としては、非常に
苦しい旅となりそうです。
それで、850ペソのダウンタウンのホテルに
移りました。
クリフォード氏自身、台風の被害を受けて
何とか、助かった方です。
1200人が死亡し、200万人が被災に遭いました。
未だに、多くの人々が
食べ物、着るもの、勿論お金も不自由しているそうです。
テラの会が、船便で送った支援物資と自分達で持っていった
支援物資も、きっとあっという間に、無くなることでしょう。
こういうとき、ドラえもんのどこでもドアがあったらなぁ・・・と、
つくづく思います。次から次と、衣服やタオルを持っていけますから・・
船便で一箱送るのもお金がかかります。
人一人が担いで持って行くのも、お金が掛かります。
テラの会が、必ず行き着く問題・・・・それでは、お金をぽんと
渡せばよいかと言うと、けして、そうではない・・・・
テラの会の、基本理念「手渡し」は、変えてはいけない、と
思うのです。
ご協力頂ける一人一人の方が、
自分の意志で、
自分の出来うる範囲で
自分が納得できる援助をする、
これも、テラの会の「基本理念」です。
どういう形であるにせよ、自分の意志で
「する」のであって、「してあげてる」わけでも
「させられている」わけでもない。
これは、とても大切な事だと思います。
例えば、一つの例をあげるとすると、
母と子にしても、傍から見れば
母親が子供の世話をしている。
しかし、母親は子供の世話をすることで、
それが生きる糧となる。
人間の関係と言うのは、どちらか一方が
お世話をしているように見えて、実は
お世話をしている方が、その自分の行為に
支えられている・・・と言う事が間々あります。
私たち自身、皆様に分かりやすい様に、
難民支援と一応銘打っておりますが、
自国の勿体無い捨てるに忍びないお洋服やタオルを
「宜しかったら、お使いください」と言う気持ちで
持って行きます。
偶々、日本人に生まれ、
今平和の中で暮らしているだけで、
同じ人間同士なのですから・・・・。
テラの会は、本日より、フィリピンへ向かいました。
フィリピンには、テラの会は、度々訪れています。
(セブシティー、イロイロ、バコロドなど)
第二次世界大戦で、レイテ島・ルソン島・ミンダナオ島・・・と、
凄まじい戦跡のあるところです。
詳しいことなど、わたし如きは書くことが出来ません。
今回は、マニラ経由で、ミンダナオ島の
カガヤン・デ・オロに行きます。
戦争を知らないまま、平和の中で育った
からこそ、戦争資料を紐解き、凄まじいまでの
戦記を読み、その思いを偲び
戦争でなくなった方々の魂が、
どうか、平らけく安らかに、天に昇られるよう、
その地を訪ねて、追悼する・・・・
これが、テラの会の第一の目的です。
同じ日本人でありながら、
偶々その時代に生まれ合わせた為に、
悲惨な戦争で亡くなった方々に対して
「ご苦労様でした」と言う思いとともに
悲惨な戦争や争いごとが起こらない様にと
の祈りです。
そして、第2の目的は、
東南アジアの各地の、
様々な理由・・・主に戦争で両親を失った
貧民街の子供達に、
衣服や学用品、食料、生活用品などを
支援すること・・
平和であることも、豊かであることも
当たり前になりすぎた日本人の一人である
「私が出来る事」・・・を、「行為」したい。
という、思いです。
そんなことしたって・・・と、お思いになる方も
いらっしゃるかもしれない・・・
でも、「一枚のタオルの価値」「鉛筆一本」の価値が
難民孤児と、日本人とでは、あまりに違いすぎるのです。
それを、知ってしまったから、テラの会は「行為」
しています。
たとえ、大海の一滴であったとしても・・・・
フィリピンには、テラの会は、度々訪れています。
(セブシティー、イロイロ、バコロドなど)
第二次世界大戦で、レイテ島・ルソン島・ミンダナオ島・・・と、
凄まじい戦跡のあるところです。
詳しいことなど、わたし如きは書くことが出来ません。
今回は、マニラ経由で、ミンダナオ島の
カガヤン・デ・オロに行きます。
戦争を知らないまま、平和の中で育った
からこそ、戦争資料を紐解き、凄まじいまでの
戦記を読み、その思いを偲び
戦争でなくなった方々の魂が、
どうか、平らけく安らかに、天に昇られるよう、
その地を訪ねて、追悼する・・・・
これが、テラの会の第一の目的です。
同じ日本人でありながら、
偶々その時代に生まれ合わせた為に、
悲惨な戦争で亡くなった方々に対して
「ご苦労様でした」と言う思いとともに
悲惨な戦争や争いごとが起こらない様にと
の祈りです。
そして、第2の目的は、
東南アジアの各地の、
様々な理由・・・主に戦争で両親を失った
貧民街の子供達に、
衣服や学用品、食料、生活用品などを
支援すること・・
平和であることも、豊かであることも
当たり前になりすぎた日本人の一人である
「私が出来る事」・・・を、「行為」したい。
という、思いです。
そんなことしたって・・・と、お思いになる方も
いらっしゃるかもしれない・・・
でも、「一枚のタオルの価値」「鉛筆一本」の価値が
難民孤児と、日本人とでは、あまりに違いすぎるのです。
それを、知ってしまったから、テラの会は「行為」
しています。
たとえ、大海の一滴であったとしても・・・・