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今は、自分が「歌手」になったから、本当の事を言おう。
私は、はっきり言って、音大の声楽科を、馬鹿にしていた。
だから、進学も全く!!考えなかった。もっと、酷い事を言うと
ピアノが下手の人が行くぐらいにしか、考えていなかった。
本当に、今思うと傲慢の極みである。若かったから・・と、
これを読んだ方には、許していただきたいと思う。
大学4年生の時、私が芸大の大学院の声楽科に進むと、
多くの人が思っていた。
私も、考えては見た。
母も勧めてくれた。
実家の経済問題と、自分の歌手としての心を天秤にかけた時、
実家の経済問題を優先した。
それは、別に立派な理由ではない。
上京して幾多の困難を乗り越えて
いっぱしの「ソプラノ歌手」になる覚悟ができていなかったのだろう。
また、それに魅力も感じていなかったのだろう。
大学の声楽の先生の歌や、所謂、クラシックのソプラノ歌手のコンサートで
感動もしなければ、魅力も感じなかった。
日本人のオペラは、日本人(胴長・短足)に似合わない服を着て
凄い形相で、言葉も、言葉の意味も、解らず「変な感じ」がした。
かろうじて、日本歌曲は、言葉が解るから聞けたけれど、
心を打たれる歌唱に出会うことは一度も無かった。
器楽はクラシックの曲も良く聴いていた。
歌は、その時代の流行(ニューミュージック・フォークソング・歌謡曲・映画音楽)
の音楽の方が、感動した。
演歌は、歌も身振りも、大袈裟で
「苦労してきました」と、
涙ながらに歌うのが厭らしくて嫌いだったが、中には素晴らしい曲もあった。
美空ひばりの「悲しい酒」 八代亜紀の「舟歌」・・・・「惜別の歌」は
小林旭の声が鼻づまりのようで嫌いだったで、曲のよさがわからなかった。
これは、後年、師匠である藤岡宣男の歌唱で、その素晴らしさを知り、涙を
何度も流した。
ただ、その2で書いたように、宗教音楽でうたわれる、合唱やソプラノのソロ曲
には、感動した。
フォーレのレクイエム・モーツァルトのレクイエム・バッハのロ短調ミサ曲・
マタイ受難曲・コラール・モテト・メサイア・・・・・マルタンの8声のミサ曲
テラの会で戦没者の方がカソリック信者であれば、
レクイエムの中から、相応しい曲を選んで歌う。
つい先だっても、タイのチェンマイの、藤田さんの追悼慰霊碑
の前で、アンドリュー・ロイド・ウェバーの「ピエ・イエズ」を歌った。
その前は、フォーレの「ピエ・イエズ」であった。
ラテン語で「慈悲深き 主よ」と言う。
Pie Jesu
Qui toris peccta mundi dona eis Requiem
sempternam Requiem
慈悲深き主よ
この世の罪を取り除き、永遠の安息を彼らに与え給え
不変なる安息を・・・・・永久に
dona (与えたまえ) eis( 彼らに) Dmine ( 神よ) Requiem( 安息を)
qui ( 関係代名詞) toris( 取り除く) peccata( 罪) mundi ( この世の)
sempternam( 変わらずに)
レクイエムやミサ通常文は、大学時代に徹底して覚えたので、今も
これぐらいは、解っている。
とにかく、ソロ歌唱より、合唱で多くの人の声が織りなす綾が
千変万化することが、ぞくぞくして、たまらなかった。
私は、はっきり言って、音大の声楽科を、馬鹿にしていた。
だから、進学も全く!!考えなかった。もっと、酷い事を言うと
ピアノが下手の人が行くぐらいにしか、考えていなかった。
本当に、今思うと傲慢の極みである。若かったから・・と、
これを読んだ方には、許していただきたいと思う。
大学4年生の時、私が芸大の大学院の声楽科に進むと、
多くの人が思っていた。
私も、考えては見た。
母も勧めてくれた。
実家の経済問題と、自分の歌手としての心を天秤にかけた時、
実家の経済問題を優先した。
それは、別に立派な理由ではない。
上京して幾多の困難を乗り越えて
いっぱしの「ソプラノ歌手」になる覚悟ができていなかったのだろう。
また、それに魅力も感じていなかったのだろう。
大学の声楽の先生の歌や、所謂、クラシックのソプラノ歌手のコンサートで
感動もしなければ、魅力も感じなかった。
日本人のオペラは、日本人(胴長・短足)に似合わない服を着て
凄い形相で、言葉も、言葉の意味も、解らず「変な感じ」がした。
かろうじて、日本歌曲は、言葉が解るから聞けたけれど、
心を打たれる歌唱に出会うことは一度も無かった。
器楽はクラシックの曲も良く聴いていた。
歌は、その時代の流行(ニューミュージック・フォークソング・歌謡曲・映画音楽)
の音楽の方が、感動した。
演歌は、歌も身振りも、大袈裟で
「苦労してきました」と、
涙ながらに歌うのが厭らしくて嫌いだったが、中には素晴らしい曲もあった。
美空ひばりの「悲しい酒」 八代亜紀の「舟歌」・・・・「惜別の歌」は
小林旭の声が鼻づまりのようで嫌いだったで、曲のよさがわからなかった。
これは、後年、師匠である藤岡宣男の歌唱で、その素晴らしさを知り、涙を
何度も流した。
ただ、その2で書いたように、宗教音楽でうたわれる、合唱やソプラノのソロ曲
には、感動した。
フォーレのレクイエム・モーツァルトのレクイエム・バッハのロ短調ミサ曲・
マタイ受難曲・コラール・モテト・メサイア・・・・・マルタンの8声のミサ曲
テラの会で戦没者の方がカソリック信者であれば、
レクイエムの中から、相応しい曲を選んで歌う。
つい先だっても、タイのチェンマイの、藤田さんの追悼慰霊碑
の前で、アンドリュー・ロイド・ウェバーの「ピエ・イエズ」を歌った。
その前は、フォーレの「ピエ・イエズ」であった。
ラテン語で「慈悲深き 主よ」と言う。
Pie Jesu
Qui toris peccta mundi dona eis Requiem
sempternam Requiem
慈悲深き主よ
この世の罪を取り除き、永遠の安息を彼らに与え給え
不変なる安息を・・・・・永久に
dona (与えたまえ) eis( 彼らに) Dmine ( 神よ) Requiem( 安息を)
qui ( 関係代名詞) toris( 取り除く) peccata( 罪) mundi ( この世の)
sempternam( 変わらずに)
レクイエムやミサ通常文は、大学時代に徹底して覚えたので、今も
これぐらいは、解っている。
とにかく、ソロ歌唱より、合唱で多くの人の声が織りなす綾が
千変万化することが、ぞくぞくして、たまらなかった。
大学時代は、バッハ以前、もしくは近代の音楽、ラベルなど
大好きだった。ドビュッシーの良さはわからなかった。
ロマンは、寧ろ嫌いだった。
大学が田舎に有り、夜になると静かだった。
勿論、ネオン一つも無い。
虫の声や、風の音、夜は一人でバッハを流しながら
本を読んだり、詩を書いたり・・・若さもあったのか・・・
孤独は楽しくて、楽しくて仕様がなかった。
ホームシックとは、全く無縁・・
北や南の国でなく、玄界灘の波を受ける宗像大社
の近くにある大学だった。
大学の裏山に、缶ジュース一本もって上り、
頂上でそれを飲む・・・そんな、大学生活だった。
卒業演奏はピアノでラベルの「鏡」より、「道化師の朝の歌」
卒業論文はやはり、ラベルだった。
大学4年のときはそんなわけで、ラヴェルの曲ばかり聴いて
過ごしていた。
自然に囲まれ、土のにおい、草いきれ、太陽、鳥達や虫の声・・・
夜10時まで練習して帰る時の、夜の空気の匂い
私の中で、自然と音楽は融合していた。
大好きだった。ドビュッシーの良さはわからなかった。
ロマンは、寧ろ嫌いだった。
大学が田舎に有り、夜になると静かだった。
勿論、ネオン一つも無い。
虫の声や、風の音、夜は一人でバッハを流しながら
本を読んだり、詩を書いたり・・・若さもあったのか・・・
孤独は楽しくて、楽しくて仕様がなかった。
ホームシックとは、全く無縁・・
北や南の国でなく、玄界灘の波を受ける宗像大社
の近くにある大学だった。
大学の裏山に、缶ジュース一本もって上り、
頂上でそれを飲む・・・そんな、大学生活だった。
卒業演奏はピアノでラベルの「鏡」より、「道化師の朝の歌」
卒業論文はやはり、ラベルだった。
大学4年のときはそんなわけで、ラヴェルの曲ばかり聴いて
過ごしていた。
自然に囲まれ、土のにおい、草いきれ、太陽、鳥達や虫の声・・・
夜10時まで練習して帰る時の、夜の空気の匂い
私の中で、自然と音楽は融合していた。
九州方面に、流れて行くと、思って
家人の実家(大分)や、私の出身地(福岡)の
方面を心配していた。
ところが、北海道の日本海方面の、羽幌に、
黒い雪が降っていると聞いた。
「黒い雪」・・・・正直言って,恐い・・・・
羽幌は、私が代表を務める「国際 will
ボランティア テラの会」 主宰者である
k氏のご実家である。いつもいつも、
美味しい海の幸、また、お野菜も美味しいものを
沢山頂いている。
2メートルの積雪に押しつぶされ
4名の方が亡くなった。
子供を雪から守って亡くなった親御さんもいる。
他にも、悲惨な事件や事故で
人が亡くなっているが、
海外でも
最近、日本人の死亡をよく聞く。
まるで、「いつ死ぬか、わかりませんよ」
と、諭されているような気がする。
「私だけは大丈夫」なんて、
全く思えないのです。
家人の実家(大分)や、私の出身地(福岡)の
方面を心配していた。
ところが、北海道の日本海方面の、羽幌に、
黒い雪が降っていると聞いた。
「黒い雪」・・・・正直言って,恐い・・・・
羽幌は、私が代表を務める「国際 will
ボランティア テラの会」 主宰者である
k氏のご実家である。いつもいつも、
美味しい海の幸、また、お野菜も美味しいものを
沢山頂いている。
2メートルの積雪に押しつぶされ
4名の方が亡くなった。
子供を雪から守って亡くなった親御さんもいる。
他にも、悲惨な事件や事故で
人が亡くなっているが、
海外でも
最近、日本人の死亡をよく聞く。
まるで、「いつ死ぬか、わかりませんよ」
と、諭されているような気がする。
「私だけは大丈夫」なんて、
全く思えないのです。
音楽には、様々な分野がある。
日本の戦後の音楽教育は、西洋音楽が
いわゆるクラシックと呼ばれるものが中心だった。
ヤマハ音楽教室で、とても優秀だったらしい私は
先生からピアノを勧められ、習い始めた。
小学校1年の時である。
小学校高学年ぐらいからの真っ白な感性に、
モーツァルトやベートーベンやバッハが刷り込まれた。
小学校2年のときから、ソルフェージュを習っていたので
初見演奏・移調奏・メロディ調音など、得意だった。
合唱の伴奏はよくさせられた。
今では笑い話だが、ホルンを吹いていたこともあるし
スネアドラムを叩いていた事もある。
ビートルズは、ほぼ全曲を英語で歌いながら
ピアノの伴奏を弾いていた。
ピアノで弾き語りもしていた。
作曲も作詞もしていた。
好きな曲は耳でコピーし楽譜を作った。
自分の声の高さにあわせて、移調譜も
作っていた・・・授業中に・・・・
ギターも、自己流で、サイモンとガーファンクルや
フォークソングなどを弾き語りしてた。
ハードロックのバンドでキーボードも少しした。
ディープパープルやクィーンが好きだった。
音楽は、常に私の周りに空気のように存在し、
音楽以外に「道」を考えることは無かった。
九州の福岡で生まれ、のんびり育った。
父親は普通のサラリーマンだった。
教育不熱心な父親だった。
母は教育熱心だったが、
弟が常にオール5を取るような子供だったので、
私はあまり期待されず割とほったらかされて育った。
家計も、父の初任給が一万円という時代であった。
高校の3年生の進路を決めるとき、音楽しか考えていなかったが
ピアノしかまともには出来なかった。
G大は練習をサボりすぎて、無理だと言われた。
M大だったら通るよと、ピアノの先生に言われた。
M大に、九州から、我が家にとっては莫大な費用、
を賭けてまでいく必要を感じなかった。
福岡も好きだったし、出る積もりも無かったので、
九州では音楽科が一番良いと言われていた
国立の教育大学の音楽課程に通うことにした。
年間16~7万円である。
親が途中から、鹿児島に転勤して、
大学の近くの女子だけの寮に入った。
家賃1万3千円。月々3万円親から仕送りを
受けていたので、足りない分は、ピアノを
教えるバイトと、ローランドと言う楽器屋の
シンセサイザーの、デモストレーションのバイトを
オーデションを受けて通り、そのバイト代で補った。
時給千円だったから、かなり良い方だった。
長くお付き合い??させていただく事になった
関屋 晋先生とは大学の一年生の夏に会った。
今でも忘れられない・・・・
「音楽の息吹」を受けた・・・・
ブラームスのネニエとモテト
このあたりから、宗教曲にはまり始めて、
中世ルネサンス音楽専門のポリフォニーの
合唱団を作ることになる。 ・・・・・続く
日本の戦後の音楽教育は、西洋音楽が
いわゆるクラシックと呼ばれるものが中心だった。
ヤマハ音楽教室で、とても優秀だったらしい私は
先生からピアノを勧められ、習い始めた。
小学校1年の時である。
小学校高学年ぐらいからの真っ白な感性に、
モーツァルトやベートーベンやバッハが刷り込まれた。
小学校2年のときから、ソルフェージュを習っていたので
初見演奏・移調奏・メロディ調音など、得意だった。
合唱の伴奏はよくさせられた。
今では笑い話だが、ホルンを吹いていたこともあるし
スネアドラムを叩いていた事もある。
ビートルズは、ほぼ全曲を英語で歌いながら
ピアノの伴奏を弾いていた。
ピアノで弾き語りもしていた。
作曲も作詞もしていた。
好きな曲は耳でコピーし楽譜を作った。
自分の声の高さにあわせて、移調譜も
作っていた・・・授業中に・・・・
ギターも、自己流で、サイモンとガーファンクルや
フォークソングなどを弾き語りしてた。
ハードロックのバンドでキーボードも少しした。
ディープパープルやクィーンが好きだった。
音楽は、常に私の周りに空気のように存在し、
音楽以外に「道」を考えることは無かった。
九州の福岡で生まれ、のんびり育った。
父親は普通のサラリーマンだった。
教育不熱心な父親だった。
母は教育熱心だったが、
弟が常にオール5を取るような子供だったので、
私はあまり期待されず割とほったらかされて育った。
家計も、父の初任給が一万円という時代であった。
高校の3年生の進路を決めるとき、音楽しか考えていなかったが
ピアノしかまともには出来なかった。
G大は練習をサボりすぎて、無理だと言われた。
M大だったら通るよと、ピアノの先生に言われた。
M大に、九州から、我が家にとっては莫大な費用、
を賭けてまでいく必要を感じなかった。
福岡も好きだったし、出る積もりも無かったので、
九州では音楽科が一番良いと言われていた
国立の教育大学の音楽課程に通うことにした。
年間16~7万円である。
親が途中から、鹿児島に転勤して、
大学の近くの女子だけの寮に入った。
家賃1万3千円。月々3万円親から仕送りを
受けていたので、足りない分は、ピアノを
教えるバイトと、ローランドと言う楽器屋の
シンセサイザーの、デモストレーションのバイトを
オーデションを受けて通り、そのバイト代で補った。
時給千円だったから、かなり良い方だった。
長くお付き合い??させていただく事になった
関屋 晋先生とは大学の一年生の夏に会った。
今でも忘れられない・・・・
「音楽の息吹」を受けた・・・・
ブラームスのネニエとモテト
このあたりから、宗教曲にはまり始めて、
中世ルネサンス音楽専門のポリフォニーの
合唱団を作ることになる。 ・・・・・続く
どなたが、おっしゃたか、とにかく、歴史全般・伝統芸能・文学・
古代史・宗教史・政治史・性史・易学・西洋占星・・・・
他に何が、あったっけ・・・まぁ、食べる時、料理する時、
銭湯に行くとき、排泄行為をするとき、電話を受ける時、
そして、「国際 will ボランティアテラの会」の「活動行為」を
なさる時以外は、全て本を読み、思索に耽り、文章を書く「行為」
を、なさっておられる、とある方が、おっしゃられたような気がする。
「大和心」と、書いて「おほひなるやはらぎのこころ」と、読む。
私のウン十年の人生の傍らには、いつも音楽があった。戦後の教育で
音楽の授業は、西洋音楽が中心・・・毎日10時間ピアノを弾く事は
出来ないと、ピアニストの道を諦めた。
中・高の音楽教員の資格を持っていたので、「音楽活動費用」をそれで、賄い
家庭を持ち、主婦業の傍ら、
学生時代に作った中世・ポリフォニー合唱団で教会で歌ったり、
主婦達だけの子供の為のオリジナルミュージカルをしたり、
この人を知らなければ、合唱会では「もぐり」と、言われる
関屋 晋の下で、世界の名だたる指揮者・オーケストラと
同じ舞台に立ち、合唱指導を受けた。
福岡NHKの夕方6時からのゴールデンタイムのアナウンサー試験に
数百人中一人、3次試験も突破し見事合格した・・・・まっ、これは関係ないか・・・・
(だって、書きたいんだも~ん)
そして、多くの人が味わう、「人生の苦難」と言うものを味わった。
「人生の苦難」にも、色々あったけれど、これは結構きつかった。
このことについては、ここでは触れない。
しかし、この経験で私が得たものは、これまた、今までの人生の
どんな出来事より、大きかったのだ。
私は、一生の宝となる「歌声」に出会い、
その「歌声」の持ち主に、師事することが出来た。
それが、今の私の「歌手」としての人生を作った。
そして、どん底まで精神的に追い詰められた私に
「手」を差し伸べてくれたのが、師匠のプロデュースを
していた、k氏だった。
友人も家族も、私の心の中には存在していなかった。
実際、友人は離れていった。家族は傍にいてくれたと
思うのだけれど、思い出せない。
ただ、「音楽」があり、貪るように、絵画を見て、文学を読んだ。
高校の非常勤をしていることは、お金をいただいている「仕事」なので、
「責任感」から、なんとか通った。
合唱団のお世話もしていた。
自分を慕ってくれる合唱団の子達に、自分が救われていた。
そこで、頂いたお金から、出会った師匠に歌を習う費用を出した。
その内、お金もなくなり、借金もした。
生活費は、主人から頂いていたが、
それは、自分の勉強のための費用に使用しないと言う、「考え」だったので、
人付き合いを絶ち、光熱費も出来る限り押さえ、
洋服も一着も買わない事に決めた。
借金は膨らみ続けた。
洋服は一度買わないと決めると、うろうろ歩く事も無くなり
不必要なほかの買い物も、自然に減っていった。
無心に頑張っていると、助け舟のように、現れる人がいる。
叔母だった。京都の着物で、商売をしている叔母は、自分は
「日本の伝統」を売っていると、自分の仕事に誇りを持っていた。
そして、舞台で使う私の素晴らしい着物の大半は、叔母の持っている
着物で賄われた。惜しげもなく、着物の事も良くわからない私に貸してくれた。
その内、私も着物について、様々な事を知るようになり、自分で着付けも出来るように
なった。ありがたい事である。
おしゃれで独自のセンスを持っている叔母は、これまた洋服も惜しげもなく
送ってくれた。どても重宝している。
そういう、私を我慢してくれた家族の存在もある。
そういう中で、さらに幾多の波乱万丈があり、今の私がある。
「手」を差し伸べてくれた人・・・が、居たから今の私がある。
「手」は、大和言葉で「たなごころ」と言う、
「手」(たなごころ)は、文字通り、手に心が表れるのである。
今、私は、「大和心」を伝える為に、自分の出来る事をしている。
「大和言葉」である、「万葉集」を歌い、大和言葉に一人でも
多くの人に親しんでもらいたい。「言葉」の力は大きい。
「言葉」を整える、ましてや、日本古来の「言葉」である
「大和言葉」に親しんでいただく事で、日本古来の心、
「大和心」(おほひなるいやはらぎのこころ)を
思い出してほしい。日本民族の持つ素晴らしい心性を・・・
そして、日本では、差し上げる事が出来ない洋服やタオルや
学用品を、「手から手へ」、東南アジアの難民及び孤児達に
渡して、喜んで貰っている。「手~掌」それは、「心から心へ」
の活動である。
私の中では、何の矛盾も起こさない、
この二つの活動を、続けて発展させて行く事・・・
それは、奇しくも、「大和心を伝える行為」となるのだ。
本当に、ありがたく、嬉しい事である。
感謝!!
古代史・宗教史・政治史・性史・易学・西洋占星・・・・
他に何が、あったっけ・・・まぁ、食べる時、料理する時、
銭湯に行くとき、排泄行為をするとき、電話を受ける時、
そして、「国際 will ボランティアテラの会」の「活動行為」を
なさる時以外は、全て本を読み、思索に耽り、文章を書く「行為」
を、なさっておられる、とある方が、おっしゃられたような気がする。
「大和心」と、書いて「おほひなるやはらぎのこころ」と、読む。
私のウン十年の人生の傍らには、いつも音楽があった。戦後の教育で
音楽の授業は、西洋音楽が中心・・・毎日10時間ピアノを弾く事は
出来ないと、ピアニストの道を諦めた。
中・高の音楽教員の資格を持っていたので、「音楽活動費用」をそれで、賄い
家庭を持ち、主婦業の傍ら、
学生時代に作った中世・ポリフォニー合唱団で教会で歌ったり、
主婦達だけの子供の為のオリジナルミュージカルをしたり、
この人を知らなければ、合唱会では「もぐり」と、言われる
関屋 晋の下で、世界の名だたる指揮者・オーケストラと
同じ舞台に立ち、合唱指導を受けた。
福岡NHKの夕方6時からのゴールデンタイムのアナウンサー試験に
数百人中一人、3次試験も突破し見事合格した・・・・まっ、これは関係ないか・・・・
(だって、書きたいんだも~ん)
そして、多くの人が味わう、「人生の苦難」と言うものを味わった。
「人生の苦難」にも、色々あったけれど、これは結構きつかった。
このことについては、ここでは触れない。
しかし、この経験で私が得たものは、これまた、今までの人生の
どんな出来事より、大きかったのだ。
私は、一生の宝となる「歌声」に出会い、
その「歌声」の持ち主に、師事することが出来た。
それが、今の私の「歌手」としての人生を作った。
そして、どん底まで精神的に追い詰められた私に
「手」を差し伸べてくれたのが、師匠のプロデュースを
していた、k氏だった。
友人も家族も、私の心の中には存在していなかった。
実際、友人は離れていった。家族は傍にいてくれたと
思うのだけれど、思い出せない。
ただ、「音楽」があり、貪るように、絵画を見て、文学を読んだ。
高校の非常勤をしていることは、お金をいただいている「仕事」なので、
「責任感」から、なんとか通った。
合唱団のお世話もしていた。
自分を慕ってくれる合唱団の子達に、自分が救われていた。
そこで、頂いたお金から、出会った師匠に歌を習う費用を出した。
その内、お金もなくなり、借金もした。
生活費は、主人から頂いていたが、
それは、自分の勉強のための費用に使用しないと言う、「考え」だったので、
人付き合いを絶ち、光熱費も出来る限り押さえ、
洋服も一着も買わない事に決めた。
借金は膨らみ続けた。
洋服は一度買わないと決めると、うろうろ歩く事も無くなり
不必要なほかの買い物も、自然に減っていった。
無心に頑張っていると、助け舟のように、現れる人がいる。
叔母だった。京都の着物で、商売をしている叔母は、自分は
「日本の伝統」を売っていると、自分の仕事に誇りを持っていた。
そして、舞台で使う私の素晴らしい着物の大半は、叔母の持っている
着物で賄われた。惜しげもなく、着物の事も良くわからない私に貸してくれた。
その内、私も着物について、様々な事を知るようになり、自分で着付けも出来るように
なった。ありがたい事である。
おしゃれで独自のセンスを持っている叔母は、これまた洋服も惜しげもなく
送ってくれた。どても重宝している。
そういう、私を我慢してくれた家族の存在もある。
そういう中で、さらに幾多の波乱万丈があり、今の私がある。
「手」を差し伸べてくれた人・・・が、居たから今の私がある。
「手」は、大和言葉で「たなごころ」と言う、
「手」(たなごころ)は、文字通り、手に心が表れるのである。
今、私は、「大和心」を伝える為に、自分の出来る事をしている。
「大和言葉」である、「万葉集」を歌い、大和言葉に一人でも
多くの人に親しんでもらいたい。「言葉」の力は大きい。
「言葉」を整える、ましてや、日本古来の「言葉」である
「大和言葉」に親しんでいただく事で、日本古来の心、
「大和心」(おほひなるいやはらぎのこころ)を
思い出してほしい。日本民族の持つ素晴らしい心性を・・・
そして、日本では、差し上げる事が出来ない洋服やタオルや
学用品を、「手から手へ」、東南アジアの難民及び孤児達に
渡して、喜んで貰っている。「手~掌」それは、「心から心へ」
の活動である。
私の中では、何の矛盾も起こさない、
この二つの活動を、続けて発展させて行く事・・・
それは、奇しくも、「大和心を伝える行為」となるのだ。
本当に、ありがたく、嬉しい事である。
感謝!!