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悲しい事なのか、喜ぶべき事なのか、解りませんが、
毛皮にも、宝石にも、ブランド品にも、そそられない・・・・
人から、頂く分には、有り難く頂戴いたします…ハイ
・・・一応、念のため
わざわざ自分で高いお金を出してまで、購入しようとは
思わない・・・とも、言えるし、買うことが出来ない、とも言えるが
でも、舞台と言う、華やかな場所で歌っている私は、
本人はわからないけれど、
結構派手に見えるらしい・・・・
舞台に立つと言う事は、人に、その姿を晒す訳だから、
その姿に責任を持つべき・・と、思う。
万葉集の舞台は、殆ど着物・・・着物は基本的にアクセサリーを
付けない。
着物の織りや色柄、着こなしでのみ、自分を演出する。
この潔さが、私は好きだ。
毛皮にも、宝石にも、ブランド品にも、そそられない・・・・
人から、頂く分には、有り難く頂戴いたします…ハイ
・・・一応、念のため
わざわざ自分で高いお金を出してまで、購入しようとは
思わない・・・とも、言えるし、買うことが出来ない、とも言えるが
でも、舞台と言う、華やかな場所で歌っている私は、
本人はわからないけれど、
結構派手に見えるらしい・・・・
舞台に立つと言う事は、人に、その姿を晒す訳だから、
その姿に責任を持つべき・・と、思う。
万葉集の舞台は、殆ど着物・・・着物は基本的にアクセサリーを
付けない。
着物の織りや色柄、着こなしでのみ、自分を演出する。
この潔さが、私は好きだ。
着物が好きだ。
母は、とってもセンスのよいお洒落さんだったが、
着物は面倒くさいから、必要最低限しか着なかった。
子供も育ち終わり、着付けの人形になりませんか?
と言われ、一も二もなく、引き受けた。
実は、お嫁いりする前に、母と着付けの学校に通ったが、
日常生活で着なければ、意味が無い。
とっくのとうに、忘れていた。
再度のチャンスに、目を光らせて、人形役をした。
着付けの先生にお金を払って習っている生徒さんの
練習台である。
その内、私も着物を持ってきて良いと師匠に言われ、
喜び勇んで持って行った。
どさくさ??に紛れて、しっかり覚えた。
勇気を出して、着物で外出をするうちに、
一人で何でも着れるようになった。
いまでは、舞台も着物だし、日常でも
ちょっとのお出かけには、着物で行く。
着物と言う民族衣装は日本女性を幾つになっても
引き立てる。
正絹の生地の染め柄を、ゆっくり眺めたり、
手で、そっと撫でたりするだけで、心が和らぐのは
大和民族の業であろうか・・・・・
ところで、私は自分の着物は殆ど無い。
京着物を扱っている叔母が、着物を身に付けるなら
中途半端な物は駄目と、次々送ってくれるのだ。
丸洗いや洗い張りするだけでも、ゆうに洋服一着
買えてしまう金額である。あ~あ・・・・
伝統って、高いのね・・・・
母は、とってもセンスのよいお洒落さんだったが、
着物は面倒くさいから、必要最低限しか着なかった。
子供も育ち終わり、着付けの人形になりませんか?
と言われ、一も二もなく、引き受けた。
実は、お嫁いりする前に、母と着付けの学校に通ったが、
日常生活で着なければ、意味が無い。
とっくのとうに、忘れていた。
再度のチャンスに、目を光らせて、人形役をした。
着付けの先生にお金を払って習っている生徒さんの
練習台である。
その内、私も着物を持ってきて良いと師匠に言われ、
喜び勇んで持って行った。
どさくさ??に紛れて、しっかり覚えた。
勇気を出して、着物で外出をするうちに、
一人で何でも着れるようになった。
いまでは、舞台も着物だし、日常でも
ちょっとのお出かけには、着物で行く。
着物と言う民族衣装は日本女性を幾つになっても
引き立てる。
正絹の生地の染め柄を、ゆっくり眺めたり、
手で、そっと撫でたりするだけで、心が和らぐのは
大和民族の業であろうか・・・・・
ところで、私は自分の着物は殆ど無い。
京着物を扱っている叔母が、着物を身に付けるなら
中途半端な物は駄目と、次々送ってくれるのだ。
丸洗いや洗い張りするだけでも、ゆうに洋服一着
買えてしまう金額である。あ~あ・・・・
伝統って、高いのね・・・・
世の中には、様々なプロと呼ばれる人たちが
いるけれど、親のプロってなんだろう・・・と、ふと、考えた。
私も、親の端くれとして、うん十数年、「娘たちを育てる」と言う
「行為」に携わらせて貰った・・・と言いたいところだが、
未だ携わっている。
「母親」としての立場からは、
(出来の悪い母だけれど、一生懸命だったのよ)・・・としか
言いようが無い。「親」なんて、立派でも大人でもないのだから・・・
娘には娘の言い分があるだろう・・私も「子供」と言う、役目を
していたから、少しはわかる。
親のプロとは、なんであるか、結局解らないが、
親をどうにかやり続けて、私がわかっている事は、
娘の心が喜びを感じられる日々を
一日でも多く送って欲しい・・と言うことである。
人生、そうもいかないことは、二百も合点だけれど、
苦しいばかりじゃ、あんまり辛い。
無能な親は、「辛い」ことがわかってもどうする事も出来ない。
「行為」せずに、黙って待つのは、しんどい・・・・
「行為」が、裏目に出る事も多々あるから・・・・
最後は、「親と娘」と言う関係を、大きく包含するような
人間関係を築けたら、最高だろうな・・・・
いるけれど、親のプロってなんだろう・・・と、ふと、考えた。
私も、親の端くれとして、うん十数年、「娘たちを育てる」と言う
「行為」に携わらせて貰った・・・と言いたいところだが、
未だ携わっている。
「母親」としての立場からは、
(出来の悪い母だけれど、一生懸命だったのよ)・・・としか
言いようが無い。「親」なんて、立派でも大人でもないのだから・・・
娘には娘の言い分があるだろう・・私も「子供」と言う、役目を
していたから、少しはわかる。
親のプロとは、なんであるか、結局解らないが、
親をどうにかやり続けて、私がわかっている事は、
娘の心が喜びを感じられる日々を
一日でも多く送って欲しい・・と言うことである。
人生、そうもいかないことは、二百も合点だけれど、
苦しいばかりじゃ、あんまり辛い。
無能な親は、「辛い」ことがわかってもどうする事も出来ない。
「行為」せずに、黙って待つのは、しんどい・・・・
「行為」が、裏目に出る事も多々あるから・・・・
最後は、「親と娘」と言う関係を、大きく包含するような
人間関係を築けたら、最高だろうな・・・・