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バコロドでの、代表の支援の印象的な
出来事・・・・・
学校に行ってない二人の男の子が居ました。
12歳と13歳です。
13歳のほうは、両親が居ません。
12歳のほうは、ママしか居ません。
代表は考えた末、13歳の子にだけ、
朝ごはんをあげました。
二人にあげてもよかったのですが、
その時はそうしたそうです。
去りながら、ふと振り返ると、
13歳の子が、12歳の子に
朝ごはんを分けてあげていました。
12歳の子は、代表があげるとき
自分も欲しいとは言いませんでした。
不思議なものですね。
貧しさは大変だけれど、助け合って
生きるしかない子供達は当たり前のように
「分け合う」のです。
必要以上に欲しがらないのです。
物を沢山持っている人に限って、
もっともっとと欲しくなるのは、何故でしょう?
ストリートチルドレン達は、人間にとって
もっとも必要な分け合う心と、優しさを
持っています。
不思議な事ですね・・・
出来事・・・・・
学校に行ってない二人の男の子が居ました。
12歳と13歳です。
13歳のほうは、両親が居ません。
12歳のほうは、ママしか居ません。
代表は考えた末、13歳の子にだけ、
朝ごはんをあげました。
二人にあげてもよかったのですが、
その時はそうしたそうです。
去りながら、ふと振り返ると、
13歳の子が、12歳の子に
朝ごはんを分けてあげていました。
12歳の子は、代表があげるとき
自分も欲しいとは言いませんでした。
不思議なものですね。
貧しさは大変だけれど、助け合って
生きるしかない子供達は当たり前のように
「分け合う」のです。
必要以上に欲しがらないのです。
物を沢山持っている人に限って、
もっともっとと欲しくなるのは、何故でしょう?
ストリートチルドレン達は、人間にとって
もっとも必要な分け合う心と、優しさを
持っています。
不思議な事ですね・・・
自分が納得した先生にしか、
教わりたくない。
藤岡さんは有名では
なかったけれど、私が求めていた歌唱を
見事に物にしていた。
『この人に歌を教わりたい』
心底、そう思った。日頃は、控えめ??な
私だが、こういう時は何故か突っ走ってしまう。
私だけが話す時間を取ると悪いし・・・
咄嗟に出た言葉は「ボイストレーニングして
いただけませんか?」
であった。
後ほど、ご連絡ください・・・と、言われ
どきどきしながら事務所に電話をした。
プロデューサーに「藤岡はボイストレーニング
をするそうですよ」と、言われ
「やったーっ」と、思った。
それから、何時間のレッスンを受けた事か・・・
そして、借金をした事か・・・・・
何度も書いているけれど、また書こう。
我が家は、生活費を家人から、
渡される仕組みになっているので、
何かを削るしか方法が無いのだ。
私は、洋服を一切買わない・・と決めた。
付き合いも悪くなり、アクセサリーやら、
なにやらも一切買わない。
その頃は高校の非常勤音楽講師をしていたので、
収入がすずめの涙ほどあったが、
あっという間に無くなった。
とにもかくにも、こうして、私の本格的な声楽家への
道が始まったのだった。
教わりたくない。
藤岡さんは有名では
なかったけれど、私が求めていた歌唱を
見事に物にしていた。
『この人に歌を教わりたい』
心底、そう思った。日頃は、控えめ??な
私だが、こういう時は何故か突っ走ってしまう。
私だけが話す時間を取ると悪いし・・・
咄嗟に出た言葉は「ボイストレーニングして
いただけませんか?」
であった。
後ほど、ご連絡ください・・・と、言われ
どきどきしながら事務所に電話をした。
プロデューサーに「藤岡はボイストレーニング
をするそうですよ」と、言われ
「やったーっ」と、思った。
それから、何時間のレッスンを受けた事か・・・
そして、借金をした事か・・・・・
何度も書いているけれど、また書こう。
我が家は、生活費を家人から、
渡される仕組みになっているので、
何かを削るしか方法が無いのだ。
私は、洋服を一切買わない・・と決めた。
付き合いも悪くなり、アクセサリーやら、
なにやらも一切買わない。
その頃は高校の非常勤音楽講師をしていたので、
収入がすずめの涙ほどあったが、
あっという間に無くなった。
とにもかくにも、こうして、私の本格的な声楽家への
道が始まったのだった。
テラの会一行は、ネグロス島のバコロドから
パナイ島のイロイロに無事、移動いたしました。
バコロドは、フェスティバルで夜遅くまで騒がしく
夜店も沢山出て、人も多く、
こちらから、ストリートチルドレン達を捜さなくても
沢山居ましたので、支援をするのには、助かりました。
しかし、滞在先が、祭りの中心となるカテドラルの
前のホテルで、中々、テラの会一行は
体を休める事ができませんでした。
テラの会は衣類など丸投げせず、一枚一枚、子供に合わせて
渡すので、とても神経と体力を使うのです。
何故、そこまでするのかと言うと、
「これは、日本からのプレゼントです」と、言って
渡しているからです。
それと、悪い大人たちが、横取りして売ったり
出来ないように、その子に合う物を一枚一枚
渡します。
子供達は、とても喜びます。
その笑顔を見ると、遠い日本から、
重たい荷物を抱えてここまでやってきた
疲れも吹き飛びます。
でも、子供もこの環境の中で生きて行かねばなりません
から、ずるくも悪くもなります。
テラの会は、今までの数多くの支援活動で、そういう子も
すぐ、見抜けるようになりました。だからといって、
どうこうするわけではありません。
何故なら、彼らは生きぬく為に身に付けた知恵なのですから・・・
しかし、お金やパスポートやカードは
いつの場合も要注意ですね!!
イロイロは、初めてですが、祭りの最中でもなく、
また、とても静かで、バコロドより、うんと田舎でした。
パナイ島は、戦争で、破壊された島ではなく、
古い家並みがそのまま残っています。
人々も、穏やかで優しいそうです。
日本兵が、戦争のときに、休暇で来る
島だったそうです。
食事は、おかず二つに、ごはんで
50ペソ(100円)です。
一日3回食べると、150ペソ(300円)
30回食べると、4500ペソ(9000円)
一ヶ月食費9000円です。
パナイ島のイロイロに無事、移動いたしました。
バコロドは、フェスティバルで夜遅くまで騒がしく
夜店も沢山出て、人も多く、
こちらから、ストリートチルドレン達を捜さなくても
沢山居ましたので、支援をするのには、助かりました。
しかし、滞在先が、祭りの中心となるカテドラルの
前のホテルで、中々、テラの会一行は
体を休める事ができませんでした。
テラの会は衣類など丸投げせず、一枚一枚、子供に合わせて
渡すので、とても神経と体力を使うのです。
何故、そこまでするのかと言うと、
「これは、日本からのプレゼントです」と、言って
渡しているからです。
それと、悪い大人たちが、横取りして売ったり
出来ないように、その子に合う物を一枚一枚
渡します。
子供達は、とても喜びます。
その笑顔を見ると、遠い日本から、
重たい荷物を抱えてここまでやってきた
疲れも吹き飛びます。
でも、子供もこの環境の中で生きて行かねばなりません
から、ずるくも悪くもなります。
テラの会は、今までの数多くの支援活動で、そういう子も
すぐ、見抜けるようになりました。だからといって、
どうこうするわけではありません。
何故なら、彼らは生きぬく為に身に付けた知恵なのですから・・・
しかし、お金やパスポートやカードは
いつの場合も要注意ですね!!
イロイロは、初めてですが、祭りの最中でもなく、
また、とても静かで、バコロドより、うんと田舎でした。
パナイ島は、戦争で、破壊された島ではなく、
古い家並みがそのまま残っています。
人々も、穏やかで優しいそうです。
日本兵が、戦争のときに、休暇で来る
島だったそうです。
食事は、おかず二つに、ごはんで
50ペソ(100円)です。
一日3回食べると、150ペソ(300円)
30回食べると、4500ペソ(9000円)
一ヶ月食費9000円です。
テラの会は、只今、フィリピンのバコロド島のネグロスから
昨日、パナイ島のイロイロに、移動しました。
ネグロスは3回目になりますが、イロイロを訪ねるのは初めてです。
しかし、その報告の前に、テラの会の第一の主旨である「戦没者
追悼慰霊」について、書いておきます。
テラの会が発足して6年になります。
ここまで何とか活動を続けられた感謝と共に、
フィリピンの英霊の方々のための祈りを
捧げました。
生き残った日本人の有志たちに
より建てられた、日本兵の小さな慰霊碑の下には
日本に持ち帰られなかった遺骨が納められています。
その慰霊碑の前で、3回目の追悼慰霊を行いました。
君が代斉唱・黙祷によるものでした。
そして、カテドラル前の戦争に巻き込まれたフィリピン人
の無名戦士の碑においても、
追悼慰霊をさせていただきました。
6年間とはいえ、ほぼ月に一回の追悼慰霊の旅、
金銭的にも、体力的にも、大変な事でした。
批判も多くありました。
しかし、賛同者も多くありました。
心から、感謝申し上げたいと思います。
そして、今後も活動が継続できますように・・・
と、祈るばかりです。
これをお読みになってくださる皆様方、
今後ともどうぞ、宜しくお願い申し上げます。
昨日、パナイ島のイロイロに、移動しました。
ネグロスは3回目になりますが、イロイロを訪ねるのは初めてです。
しかし、その報告の前に、テラの会の第一の主旨である「戦没者
追悼慰霊」について、書いておきます。
テラの会が発足して6年になります。
ここまで何とか活動を続けられた感謝と共に、
フィリピンの英霊の方々のための祈りを
捧げました。
生き残った日本人の有志たちに
より建てられた、日本兵の小さな慰霊碑の下には
日本に持ち帰られなかった遺骨が納められています。
その慰霊碑の前で、3回目の追悼慰霊を行いました。
君が代斉唱・黙祷によるものでした。
そして、カテドラル前の戦争に巻き込まれたフィリピン人
の無名戦士の碑においても、
追悼慰霊をさせていただきました。
6年間とはいえ、ほぼ月に一回の追悼慰霊の旅、
金銭的にも、体力的にも、大変な事でした。
批判も多くありました。
しかし、賛同者も多くありました。
心から、感謝申し上げたいと思います。
そして、今後も活動が継続できますように・・・
と、祈るばかりです。
これをお読みになってくださる皆様方、
今後ともどうぞ、宜しくお願い申し上げます。