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今日は、歌うのでは無くて、万葉集のレクチャーでした。
地味な黒縞模様の結城紬に紫のモダン帯、襦袢は紅と、
粋に着たつもり・・・着物姿でお話しするときお茶を
飲むのに、ペットボトルをぐい飲みは嫌だな・・・と、
思っていたら、お台所の棚の隅から、古い水筒が出てきました。
今はもう、どこにも売っていない、蓋になっているカップに注いで飲む
タイプです。思えば、お茶や水のペットボトルが発売されたとき、
うっそだぁ~、お茶やお水を売るなんて、と思っていたら、大当たり
それから、続々と新商品が売り出されました。
その時、一番抵抗を覚えたのが、ぐい飲みしなきゃ飲めないこと。
自分用コップを持ち歩けばよいけれど、喉を平気で人様の目に晒すのが
とても嫌だったのです。しかし、時の流れとともに、いつの間にか
慣れてしまっていましたが、さすがに着物姿では嫌だなと、思って、
運よく出てきた水筒を、持っていきました。
これで、ほっと一安心。
熱い煎茶を、カップに注いで飲みました。
大切にしなきゃ・・・この水筒
もう、どこにも売ってない・・ぐい飲みタイプばかりだから
地味な黒縞模様の結城紬に紫のモダン帯、襦袢は紅と、
粋に着たつもり・・・着物姿でお話しするときお茶を
飲むのに、ペットボトルをぐい飲みは嫌だな・・・と、
思っていたら、お台所の棚の隅から、古い水筒が出てきました。
今はもう、どこにも売っていない、蓋になっているカップに注いで飲む
タイプです。思えば、お茶や水のペットボトルが発売されたとき、
うっそだぁ~、お茶やお水を売るなんて、と思っていたら、大当たり
それから、続々と新商品が売り出されました。
その時、一番抵抗を覚えたのが、ぐい飲みしなきゃ飲めないこと。
自分用コップを持ち歩けばよいけれど、喉を平気で人様の目に晒すのが
とても嫌だったのです。しかし、時の流れとともに、いつの間にか
慣れてしまっていましたが、さすがに着物姿では嫌だなと、思って、
運よく出てきた水筒を、持っていきました。
これで、ほっと一安心。
熱い煎茶を、カップに注いで飲みました。
大切にしなきゃ・・・この水筒
もう、どこにも売ってない・・ぐい飲みタイプばかりだから
昨日は、京都の着物を取り扱って、別府で仕事をしている
呉服屋さんの叔母が、趣味で描いてる洋画の先生の個展が、
日本で最も古い洋画商である日動画廊で、開催されていた。
良い天気でもあるし、夜は水天宮前の日本食料理屋さんで、
会食の予定があったので、叔母の所で作ったばかりの、もう
滅多なことではお目にかかれないであろう、手織りの結城紬
に紫色の、これも叔母と仕事をしている方のデザインで、モダンと
和を折衷させた帯を締めて、銀座へ出かけた。
叔母から頂いたハガキの絵では、少し気難しそうな中年の男性を
想像していたが、現れたのは何の気どりもない、若い先生だった。
ここで写真を載せれば、こんな下手な文章を長々と綴らなくてもよいのだが
まだ、その技術は習得していない、、、悲しい、、、
先生と叔母の話や絵の話などして、一人でふらっと銀座を散歩した。
三越で、お手洗いを待っていると、後ろの婦人から、なんて素敵な帯と
着物でしょと、言われた。嬉しかった、、
夜は、楽しい賑やかしい会食をし、一日が終わった。
呉服屋さんの叔母が、趣味で描いてる洋画の先生の個展が、
日本で最も古い洋画商である日動画廊で、開催されていた。
良い天気でもあるし、夜は水天宮前の日本食料理屋さんで、
会食の予定があったので、叔母の所で作ったばかりの、もう
滅多なことではお目にかかれないであろう、手織りの結城紬
に紫色の、これも叔母と仕事をしている方のデザインで、モダンと
和を折衷させた帯を締めて、銀座へ出かけた。
叔母から頂いたハガキの絵では、少し気難しそうな中年の男性を
想像していたが、現れたのは何の気どりもない、若い先生だった。
ここで写真を載せれば、こんな下手な文章を長々と綴らなくてもよいのだが
まだ、その技術は習得していない、、、悲しい、、、
先生と叔母の話や絵の話などして、一人でふらっと銀座を散歩した。
三越で、お手洗いを待っていると、後ろの婦人から、なんて素敵な帯と
着物でしょと、言われた。嬉しかった、、
夜は、楽しい賑やかしい会食をし、一日が終わった。
長い事、病で臥せっていたり、
子育てで苦しんだり、人並みに苦労をし、やっと
この年齢になって、ぶれない自分になった。
人生の早い時期からぶれない人は、すごいなと思う。
戦没者追悼慰霊活動、また、難民支援活動は、木村先生は
違うと思うけれど、私ごときは自己満足の最たるものだと分かっている。
この活動に、参加させていただき本当に有難いと思っている。
駄目だらけの自分だけれど、歌うことが、自分を負のエネルギーの
世界から、立ち直らせてくれたのだ。
音楽・・・その中で「歌う」ことは、私が生きることに、直接繋がる行為
であり、万葉集は、私の求め続けてきた、その心性を、
一人でも多くの方々に伝えたいと思うものとなった。
大和心と書いて、おほひなるやはらぎのこころ と読む。
争わない・対立しない・競争しない・・・和と言う言葉は
あえる とも読む。豆腐の白和えとか・・
豆腐の白和えの様な、日本の伝統 上手に和えたら、とても美味しくなる
世の中もそうであればよいのに・・・
負のエネルギーは怒りや憎悪や憎しみしか生まず、それに翻弄される方々は
いつか同じことが、自分に全て跳ね返ってくる。
生まれただけでも奇跡なのだ。その奇跡を死ぬまで、生き切りたい・・
明日がどうなるのか、わからないのだから・・・
子育てで苦しんだり、人並みに苦労をし、やっと
この年齢になって、ぶれない自分になった。
人生の早い時期からぶれない人は、すごいなと思う。
戦没者追悼慰霊活動、また、難民支援活動は、木村先生は
違うと思うけれど、私ごときは自己満足の最たるものだと分かっている。
この活動に、参加させていただき本当に有難いと思っている。
駄目だらけの自分だけれど、歌うことが、自分を負のエネルギーの
世界から、立ち直らせてくれたのだ。
音楽・・・その中で「歌う」ことは、私が生きることに、直接繋がる行為
であり、万葉集は、私の求め続けてきた、その心性を、
一人でも多くの方々に伝えたいと思うものとなった。
大和心と書いて、おほひなるやはらぎのこころ と読む。
争わない・対立しない・競争しない・・・和と言う言葉は
あえる とも読む。豆腐の白和えとか・・
豆腐の白和えの様な、日本の伝統 上手に和えたら、とても美味しくなる
世の中もそうであればよいのに・・・
負のエネルギーは怒りや憎悪や憎しみしか生まず、それに翻弄される方々は
いつか同じことが、自分に全て跳ね返ってくる。
生まれただけでも奇跡なのだ。その奇跡を死ぬまで、生き切りたい・・
明日がどうなるのか、わからないのだから・・・
テラの会の活動は10年以上になるのだが、追悼慰霊に伴い
ストリートチルドレンやスラムの方々(子供を含めて)衣服支援と
筆記用具、食糧などを支援するようになっていった。
木村先生のお弟子さんが、インドネシア人と、結婚され、そのウブドと
言う村にみんなで訪ねると言う時に、村の人たちは、お洋服とかタオルとか
足りていないから喜ぶと聞いて、その時に、古着の綺麗なものとか
持参したのだったと思う。また、クタの街を徘徊するストリートチルドレン
達の、生活・・・それは、裸足、ぼろぼろの服、明らかに食糧が足りていない、
という状態などを、木村先生が、見て、何かできないか・・という事で
始まったのだと思う。一応、それで、私が代表として、衣類等の支援を、
引き受けることになったと記憶している。
何事も、やって見なければ、事の真実はわからない。
大海の一滴にもならないテラの会の活動であるが、追悼慰霊と、共に
やらずにはおれなかったのだ。先生も私も・・・
ストリートチルドレンやスラムの方々(子供を含めて)衣服支援と
筆記用具、食糧などを支援するようになっていった。
木村先生のお弟子さんが、インドネシア人と、結婚され、そのウブドと
言う村にみんなで訪ねると言う時に、村の人たちは、お洋服とかタオルとか
足りていないから喜ぶと聞いて、その時に、古着の綺麗なものとか
持参したのだったと思う。また、クタの街を徘徊するストリートチルドレン
達の、生活・・・それは、裸足、ぼろぼろの服、明らかに食糧が足りていない、
という状態などを、木村先生が、見て、何かできないか・・という事で
始まったのだと思う。一応、それで、私が代表として、衣類等の支援を、
引き受けることになったと記憶している。
何事も、やって見なければ、事の真実はわからない。
大海の一滴にもならないテラの会の活動であるが、追悼慰霊と、共に
やらずにはおれなかったのだ。先生も私も・・・
万葉歌手 辻友子のほかに、テラの会代表と言う肩書も持っている。
但し、本当のことを言うと、主宰の木村先生が、全ての計画を立てておられ、
それに乗っかって、自分ができることをしているだけである。
この活動は、木村先生のもとに、サイパンで取材旅行をしている
女性から、行くたびに、日本兵の幽霊を見ると言う相談を持ち掛けら
れたことから、始まっている。
それまでに、清め祓いを、しばしば頼まれていた木村先生は、
サイパンに行こうと、決断された。
残念なことに、私はテラの会初めての活動となったこの旅に参加していない。
木村先生は、それでサイパンの戦記を詳しく読まれ、サイパンに旅立った。
詳しいことは、木村天山ブログの追悼慰霊の旅日記を、お読みになってください。
それから、怒涛のような、「テラの会 東南アジア追悼慰霊の旅」が始まるのだ。
沢山の不思議な出会いがあり、導かれるように追悼慰霊の旅が続いた・・・
但し、本当のことを言うと、主宰の木村先生が、全ての計画を立てておられ、
それに乗っかって、自分ができることをしているだけである。
この活動は、木村先生のもとに、サイパンで取材旅行をしている
女性から、行くたびに、日本兵の幽霊を見ると言う相談を持ち掛けら
れたことから、始まっている。
それまでに、清め祓いを、しばしば頼まれていた木村先生は、
サイパンに行こうと、決断された。
残念なことに、私はテラの会初めての活動となったこの旅に参加していない。
木村先生は、それでサイパンの戦記を詳しく読まれ、サイパンに旅立った。
詳しいことは、木村天山ブログの追悼慰霊の旅日記を、お読みになってください。
それから、怒涛のような、「テラの会 東南アジア追悼慰霊の旅」が始まるのだ。
沢山の不思議な出会いがあり、導かれるように追悼慰霊の旅が続いた・・・