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今朝の6時半、成田に着いた。
旅はあっという間だった・・・きっと、死ぬ時もあっという間だったと思うのだろう
陽が昇る前の素晴らしい空の色、地上では見られない色だった。
タイのチェンマイは、インドネシアのバリ島のウブドやサヌールや、
勿論、あの痛ましい事件の起こったクタより、何かが整っていたように感じた。
問題は他の発展途上国と同じで山積み、だけど、少し何かが違っているように感じられた。
というほど、アジアの国を知っているわけではないが、時間の許す限り、アジアをかなり回った
スタッフからさまざまな話を詳しく聞いていたから・・・
仏教国であること、王制があること、それらが抱える問題はひとまず置いて、まあまあのベースが
あるということだろうか・・・・
まぁ、私のような俗物は、貧しくても真面目で家族を大切に頑張っている人々をみれば、
良かったと思い、悲惨な多くの方々を見れば自分の無力さと
何やら自分の傲慢さにほとほと嫌気がさしたりするのである。
そんな私が、歌った歌を、喜んで聞いてくれ、蛇の目傘までくれた、女子高の子達や、
乳飲み子を抱え、物乞いする親子にスタッフが服を渡すと凄く喜んでいる姿を目にした後で、
物乞いの親子の上に絞め屋が居て、物乞いの場所まで、指定し、
殆どの稼ぎを奪うというやりきれない話も聞いた。
書き始めればきりがない。
写真とともに、少しずつ私なりの話を綴りたいと思う
旅先からは、掲示板にしか書込みできなかったので、明日からはまた、
ブログで万葉集と戯れたいと思います。ぅわぁ~い!!!
昼間、路上生活者の方々は、生活に必要な物をそろえる為、また、空き缶などを集めて、
お金にするため、一定の場所に居ない事が多いであろうということで、ひとまず昼の衣服支援は
切り上げて、糸満市摩文仁の「平和の礎(いしじ)」に向かいました。
ここは、現天皇皇后両陛下も、訪れたところです。
240,856人の戦没者、それは、沖縄県のみならず、沖縄戦のために、日本全国から集められた
人々、そして、米国、英国、台湾、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国の兵士たちの
名前が刻まれた刻銘碑が、太平洋に向かってⅤの字に、ずらっと建てられていました。
この戦没者の数、また国だけでも、沖縄戦の凄まじさがわかります。
私は、日本人戦没者のみならず、その当時は敵国であった外国人の戦没者の名前も
刻まれている事に、感動しました。
考えれば当たり前の事です。
敵も味方もない、全ての人は戦争という化け物の犠牲者になった方たちですから・・・
照るつける太陽と、美しい海、青空と、頬を撫でていく優しい風が、
余計戦争の悲惨さを私に感じさせました。
平和の礎を後にし、白梅(しらうめ)の塔に向かいます。
有名な映画にもなった、ひめゆりの塔は、現天皇皇后両陛下が訪れ、火炎瓶を投げつけられた所です。
白梅の塔は、あまり人に知られず、しかしひめゆりの塔と同じように女子高校生を多数含む
翌朝、ホテルで洋食の朝食を済ますと、レンタカー会社の人の迎えを待ちました。
そう、今回、私が沖縄の追悼慰霊と衣服支援に参加させて貰えたのは、
スタッフがだれも運転免許証を持っておらず、私が運転手として選ばれたのです。
大体、このような活動に女性は不向きです。手早く動けないし、大きな荷物は持てないし、
下手すると自分が大きな荷物になりかねません。せいぜいムードメーカーといった程度でしょう。
沖縄は交通機関が発達しておらず、車がないと非常に不便で効率の悪い行動をとらねばばりません。
スタッフとともに車で、街中を廻りながら、路上で生活している人を捜しました。
時間帯のせいでしょうか・・・中々見つかりません。
途中、座り込んでいる男の人にスタッフが本土から来た訳を話して、
衣類に困っている人がいませんか?と、訪ねたところ、とまりんに沢山いるよと教えてくれました。
とまりんとは、港のある場所の通称です。我々は、とまりんに向かいました。
ところが、とまりんにも、あまりいません。
一人の老婦人が階段の所に座っていたので、
スタッフが「私たちは本土から衣類を持ってきましたが、使いませんか?」と、尋ねました。
その老婦人は明らかに路上生活者でしたが、
「間に合っているからいらない。ありがとう。」と、答えたそうです。
少し向こうに数名の男性がいました。中にかなり年を取った男性がいて、スタッフが
衣類を持って行くと、「秋冬物がなくて困っていた」と言って貰ってくれました。
若い男性も、タオルもあるの?と言って、一枚持っていきました。
もう一人、髪の伸びた男性に渡したと思います。短めのズボンやTシャツなどです。
海外と違って、豊かな日本の中で、路上生活者をしている人たちに、衣服を差し上げるのは、
難しい一面があります。
我々が行っている衣服支援の基本は、「物は大切に最後まで使う。物の始末をきちんとする」
という、日本の伝統的な慣習を実行しているだけです。
ただ、最近の日本は古着を差し上げるのも失礼になるからと、気を使って、まだまだ着用可能な
衣類が沢山ゴミとして捨てられています。その勿体なさと、一着の服を着たきりの
アジアの方々にその衣類を差し上げられないかしらという所から始まりました。
最初から大掛かりな事をすると続きませんから、
自分たちが出来るところからというスタンスで始められました。
以前から、NPO法人や大きなボランティア団体の内情に疑問を持っていた私は、
これほど明らかな支援はないと言う事、ジャンボ飛行機で運んでも、ひとり20㎏の手荷物で
運べるだけ運んでも、どちらにしても、大海の一滴にすぎないこと・・・・
要はできる事をやるかやらないかの違いだと思い、お手伝いをさせていただいています。
今回は国内ということで、違った意味で考えさせられました。
ひとまず、衣服を手渡すことに、きりをつけて、いよいよ、追悼慰霊に向かいます。