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目覚めた・・・・6時半ごろであろうか・・・・篠笛の音と豚のブヒブヒという鳴声、鶏のコケコッコーという
声で目覚めた・・・・しばらく、自分はどこにいるのか考えていた。
そっか~タイの山岳部のカレン村にいるのだ。
篠笛はコウタさんだった。大きな黒豚が横になっている向こうで、優雅に篠笛を吹いている・・・・
下から、小西さんや木村先生や千葉さんの声が聞える・・・・「コーヒー飲みますか?」
「そうですね」・・・などという会話。カレン村での、朝のコーヒー優雅である。
私は、女性なので多少なりともお化粧して、梯子を降りた。
「おはようございます」
奥様のおかあさまが、」なにやら臼のようなもので、何かをつぶしている・・・・朝ごはんの
用意だろうか・・・・
一応、木村先生が気をきかして、パンやチーズハム、ジュースなどを買ってきていたが、
昨夜の美味しい豚肉と野菜を炒めたものが、出た。
千葉さんやコウタさんは、ご飯が出るのを待っている・・・・やはり、美味しいのだ。
私は、パンを食したが、勿論、その炒め物も頂いた。ご飯に掛けて食べると絶品である。
全員、美味しい朝食を済ませた後、カレン村にやっと辿り着いて、畑で空を見て亡くなった
若い日本兵士を追悼慰霊に向かう・・・・・
また、ぼこぼこと、車に揺られて、その先は歩きである。
おおっ、インディージョーンズの世界・・・道なき道を行き、竹を二つに割り、三本ほど掛けてある
めちゃ、あぶなっかしい橋を渡る・・・・やっと、辿り着いた。
奥様のおじいさまが、その話を奥様にされて、是非追悼慰霊を、という話になったのだ。
65年前の戦争で、チェンマイの町に行くはずが山を彷徨いカレン村に辿り着いた若い兵士
そこは、人家の傍でなく、畑であったため、彼は仰向けになって、息絶えたそうだ。
総勢6人で、名も知らぬたった一人でなくなった兵士の追悼慰霊をした・・・朝日が昇る・・・
目に沁みる・・・・彼は、仰向けに横たわり、もう死ぬんだと自覚したであろう・・・・
俺の人生はなんだったのか・・・・母は、父は、恋人はいたのだろうか・・・・
様々な思いが私の心に去来し、堪らぬ思いがした・・・・でも、祈って居るうちに、来て良かった
という思いがこみ上げた。
ごくろうさまでした。安らかにお上りください・・・・
そのような時代に生まれ合わせた彼・・・・誰のせいでもない・・・・
追悼慰霊を終えて、小西さんの奥様の実家に戻る・・・・もうお別れの時間である・・・・
なんということはない、でも、自然なお別れ・・・・、ただ、あたたかなそして、ちょっと淋しい感情が
流れる。
小西さんご一家はチェンマイに戻られると言う事で、行きのメンバーで、帰路に着いた。
帰り道、小西さんがいつも行っていらっしゃると言う瞑想のお寺に立ち寄った。
バンワングタン ワットマン ドイトム
というそのお寺は、大きな門を入ると、もう、何か違っていた。
自然体のお坊さんに、小西さんが何か話しかけている。小西さんはいつもここで瞑想修行
をなさっておられるので、多分普通の人は入れないそのお寺に、私達を入れても良いか、
聞いている感じがした。お坊さんが手を合わせられたので、(いいですよ、どうぞ)と、おっしゃって
頂いた気がして、足を進めた。
どんどん、奥に入っていく・・・・静かである。
目と目の間に圧迫感を感じた・・・・その奥が痛い・・・
すると、目の前が開け、大きな大きな岩が現れた・・・その下で、高僧が瞑想を行っている。
私は、なんとなく悪い感じがして、岩の下まで行かなかったが、木村先生やコウタさんは、
瞑想ゾーン?まで行って、何か感じられたらしい。
それから、広くて自然の中の、瞑想をする僧侶達の生活の場や、その他の瞑想の場所を
歩き回った。
お寺の門を出ると、空気が全く違っていた・・・勿論、日本のお寺とは全然、空気が違う。
がたごと、車に揺られながら、次は、最後の支援の場所、カレン村の小学校に向かった。
まるで、私の祖父母の田舎の家を大きくしたような所で、何の違和感も感じない。
ただ、言葉が全く通じないだけだ。
民族舞踊を子供たちが、いくつか見せてくれた。竹の棒を交差してリズミックに開閉する、
その間を縫って、飛んで歩くのだ。先生に言われて練習したのだろう・・・どうでもいいような顔
をして、やってる子、成績優秀な子として張り出されていた子は、真面目に取り組んでいた。
女の子達はきゃっきゃっと言いながら、女の子らしく興じていた。
なんとそこへ、木村先生が飛ぶといって、入っていった・・・・足首を痛めなければ良いが・・・
子供達のリズムを完全に壊している。こうたさんは、若いだけあって、上手だった。
私は結果が目に見えて居るので、入らなかった・・・・・やってみたかったけれど・・・・
それから、男女に衣服を分けて、男の子は木村先生、女の子は私が一人一人サイズや
雰囲気に合わせて、順番に手渡しした。最初はとっても、遠慮がちだったが、最後は家族に
あげたい人・・・というと、みんなわぁ~っと集まってきた。最初からかっこいいジャンバーを狙って
いたらしい男の子は、それまで、遠慮していたのにすかさず、木村先生からそのジャンバーを
確保した・・・・やった=!そんな感じだった。何処の国の子も変わらない・・・・子供は地球の
宝物・・・・・女の子も最後は、日本のセールの女性並みに、集まって来た。どこの子も
変わらない。ただ、カレン村は乙女だけが着るという真っ白な民族衣装で、髪も全員、
断髪にしていた。私もとても、楽しかった。
先生の号令でまた、子供達が整列した。せっかくなので、ギターや歌を子供達に
聞かせてあげてください、と小西さんがおっしゃった。特に、ギターなど見たことも聞いた事も
ないのだと言う・・・・晴天の青空の下、千葉さんは、マラゲーニャというスペインの曲を、
私は「浜千鳥」を歌った。気持ちが良かった。この次に来る時に、憶えておいてもらえるよう、
「大きな栗の木の下で」を、ふりをつけて、歌ってみんなに、教えた。小西さんも奥様も一緒に
歌い踊ってくれた・・・・インドネシアのバリ島のウブドの子供達も、この歌を歌っていた。
いつの日か、この中の誰かが、その日本の歌知ってるよ・・・と、話す日が来るかもしれない。
また、そういう、アジアの国であって欲しいと、心の中で願った・・・・
先生も、みんなで練習している。先生、覚えて子供達に教えてください。又、来た時に
一緒に歌いましょう・・・・
あたたかで、おだやかで、心のこもったカレンの村の小学校の、子供達と先生との交流を、
終えて、私達は、いよいよチェンマイへと向かった。
チェンマイのホテルに着いた。
木村先生が、モントリホテルで、値段交渉の決裂のため、新しいホテルに入った。
800バーツ、日本円にして、約2400円・・・充分な広さで、お湯もちゃんと出る。
小西さんご家族と、ホテルで食事をし、別れを惜しんだ。明日私達が、チェンマイを発つのも
車で送ってくださると言う・・・・・。
夜まで、それぞれ休憩をとることにした。夜は、市場が開かれるので、その中のメチャ安い、
ダイエーのフードコートのような所で、食べようと言う事になった。
私は、ずらっと並ぶバザーをひやかして、お土産を買おうと決めた。
明日はバンコクに発つ・・・・実質的には、旅は終わりである。
充実した、旅を思い、仮眠を取った・・・・
コンサート当日・・・ホテルにて、夏用の黒留袖に着替え、ホールへと徒歩で向かう・・・・
夏用黒留袖で、チェンマイの街を歩いた初めての日本人女性ではないだろうか・・・・
南国の夕焼けが顔に照りつける・・・・シミにならないかしらん・・・ちょっと、心配・・・
既に、小西さんご家族がホールにて準備をなさっている。
ホールの方も、ここでコンサートをするのは4回目で、木村先生とも顔見知りのようだ。
第一部は
木村天山先生による舞台です。既にリハーサルの時点で、本番並みに歌われたのですが、
更にパワーアップして、熱唱されました・・・みなさま、本当に心打たれた事と思います。
とりわけ、加藤隼戦闘隊は、私もつい伴奏に熱がこもり、客席からも熱気が感じられました。
第2部は
私の舞台でした。
拍子を取る様に、首を振りながら聞いている人、
懐かしさを顔いっぱいに浮かべて聴いている人・・・さまざまです。
「夕焼け小焼け」と「赤トンボ」を歌ったときに、思わず皆さんもご一緒にと言ってしまいました。
みなさん、どんどん声が大きくなります。
最後はみんなの心が一つになって、「夏の思い出」を歌いました。
但し、これはプロとしてすべき事ではなかったのだと、後で反省しましたが・・・思わず、
ご一緒に・・・と、言ってしまいました。
小西さんご夫妻や、タイの慧燈財団の方など、様々な方のお力添えを頂き、素晴らしい
コンサートが終わりました。
数年前の私は、チェンマイでコンサートで歌うなどとは、思いもよりませんでした。
人生とは不可思議なものですね・・・・
感謝の気持ちでいっぱいです。
タイのホテルや、インターネットの回線の繋がるところで、自分で書込みをしたものを読んでみた。
読んでいるうちに、ハタと気づいた。
自分の文章なのに、実際、私が体験したものとは異なる世界がそこには広がっている・・・・
それは、私のボキャブラリーの無さや、文書の下手な事も原因だが、
もう一つ、大切なことに気付いた。
文章はやはり、文章でしかないのだ・・・言葉やはり、言葉でしかない・・・・体験を超えるもの
には、なり得ない・・・・と言う事だ。
今の時代は、言葉の力が弱いと言われる・・・その時代に育った私だからなのだろうか・・・
私自身が体験したタイ・・チェンマイ・バンコク・そして、山岳少数民族カレン村・・・での
旅は、こんなものではなかった・・・言葉に出来ないものの方が山ほどある・・・・
人は皆・・・現実を越えるものを求めていく・・・典型的なものは芸術だろう・・・・
身近には、テレビも然り、買い物・主婦のランチグルメ・・・そして、文章も言葉も・・・・
でも、あらゆる感情は、深く感じると・・・何故だか・・・言葉に出来なくなる・・・
沈黙してしまう・・・・のだ・・・
だから、私も文章で私の旅は、殆ど表しえてないのだ・・・・悲しい・・・・
普段でしたら明後日はコンサートというので、前日は休みを取るのですが、
今回は毎日スケジュールが詰まっていました。
今日は、女子訓練校に衣服支援、とちっちゃなコンサートに行きます。
去年もう訪ねた所です。私たち、特に木村先生の顔を覚えて居る生徒も多くいたようです。
今年は初の試みとして、王様賛歌を歌いました。コウタさんがタイ語の読み書きが出来るように
なったので、早速先頭を切って歌っていただきました。タイ語がよくわからない木村先生は
大声で歌っておられました。
それから、君が代を歌いました。なぜか日本国内で君が代を歌うと、後ろめたい気持ちがする
のは、戦後の日教組の教育の賜物でしょうか・・・タイは堂々とみんな国旗を掛け、何処にも王様
の写真が飾ってあり神棚が有り、安心します。愚かなる人間の為に必要な事だと思います。
タイでしたので君が代を気持ちよく大きな声で、歌わせていただきました。
それから、衣服を渡して、千葉さんのギター演奏・私の浜千鳥などの歌をお聞かせしました。
言葉は通じませんが、二回目になりますと、何か心に通うものが有りました。
たまたま、新品の女物パンティを10枚ほど持っていったのですが、
以外にもそれ人気が有りました。下着だけは、よほど綺麗
じゃないと渡しづらく、しかし、若い女の子たちにとって、最も必要なものです。
別に、日本の女の子が穿くようなふりふりなど付いていなくても、良いのです。
清潔できちんとしていればダイエーなどで安売りの時に買いたいと思いました。
生理用品もあちらで購入し、置いてきました。女の子ならではのものは、私がもっと、
気をつけねばと思いました。どちらにしても、温かい雰囲気で支援を終え、校長先生も
テラの会を憶えていて下さり、スムーズにそいて、とても良い雰囲気で終えました。
今後も、良い形での支援が出来ると良いと思いました。
明日のため、午後は予定を居れずに、やすみました。