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コンサートに行くと、いつも、受付に和服姿の男の方が立ってらっしゃいました。
クラシックのコンサートの受付なのに、着物姿で何か変なの・・・と少し思いましたが、藤岡さんの
歌を聴きに来ていたので、あまり気になりませんでした。
レッスンの回数とコンサートに行く回数を重ねていくうちに、人手が無い事fが分かりました。
「私でよければ、受付を致しますが・・・」
と申し出たんです。
藤岡さんのコンサートのお手伝いができる事がとても嬉しかった。
なんだか、落語家に弟子入りしたような気持ちでした。
全て、家内工業なのが、世の中の考えと違い、面白くて楽しくてなりませんでした。
20代後半に、子供のための手作りのオリジナルミュージカルを、
主婦仲間とやっていた時代を思い出しました。
お金を頂く仕事も沢山していましたが、精神はアマチュアでした。
しかし、ここは違う・・・・・舞台に人生をかけた男二人が命がけで格闘していました。
私は、身が引き締まる思いがして、心を打たれました。
★ かむなびの いはせのもりの ほととぎす けなしのおかに いつかきなかむ
しきのみこ
★ 神が居ます石瀬の森のほととぎすよ、毛無しの丘に いつ来て鳴いてくれるのか。
志貴皇子
この歌は夏の歌なので、載せました。
志貴皇子は、前にも記した天智天皇の7番目の息子です。天皇に即位することなく人生を
終えられた方です。
他にも、万葉集には6首の歌が、収められています。
★ 大原の このいち紫の いつしかと 我が思ふ妹に 今夜逢へるかも
★ むささびは 木末求むと あしひきの 山の猟師に 逢ひにけるかも
★ 采女の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
★ 葦辺ゆく 鴨の羽交に 霜降りて 寒き夕へは 大和し思ほゆ
★ 石ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる春に なりにけるかも
最後の歌は私のとても好きな歌です。
★ いはばしる たるみのうえの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも
★ 岩にほとばしって落ちる滝のほとりのわらびが、芽を出す春になった事だ
季節外れなので、最後に記しましたが、実はこの歌を載せるために、
志貴皇子の歌を集めてみました。
この和歌は、もう随分と前に、曲を付けていただき、CDにも入れています。
是非、これを機会にお聞きになってみてくださいね。
春の喜びに溢れた歌です。和歌はいいですね・・・・理屈を捏ね回して難しく言わない・・・・・
次回は残りの志貴皇子の歌を、紐解いてみますね・・・
結構、私のタイプかもしれない・・・・から
2002年2月19日(火)、カウンターテナー藤岡宣男の歌声に出会って以来、
抑鬱でまともに外出も出来なかった私が、
藤岡さんのコンサートだけには必ず出向くようになった。
ある日は、聞いている間中、涙が止まらない時もあった。
それは歌の内容とかそういう感動とは違う何かを越えた物であった。
たとえようがない・・・・何か・・・・・綺麗な声とかシルクトーンとか色々言われていたけれど
そういうものではなくて・・・いつか、その神秘のベールが解き明かされる日が楽しみである。
私はこの人を目指したい・・・そう思った。
この人が登っている山を私も登りたい・・・・実際、藤岡さんは
「僕たちは同じ山を登っている。僕が少しだけ先を行っているだけなんだよ」と、言ってくださった。
なんと、謙虚な言葉であろうか・・・
藤岡さんは世界レベルの歌い手でありながら、人が20年かかって学ぶ事を
その聡明で明晰な頭脳と、音楽に対する一途で誠実な姿勢により数年で掴み取った。
でも、世の中の人は大多数はそのように学べないし、それを理解できないがゆえ、
中々有名にならなかった。
が、それゆえ、私は彼から一番弟子として学ぶ幸運を得る事が出来たのである
こんな凄い人が・・・・日本の歌手にいる・・・・誇りである
彼は権力におもねる事を嫌っていた・・・・何しろ藤岡さんの誕生日は12月14日・・・・・
あの大石内蔵介率いる赤穂浪士47士、討ち入りの日にこの世に誕生したのであるから・・・・
藤岡さんはその整った顔立ちと、ソフトな対応から、そのように見えなかったかもしれないが
魂はマグマのように燃えていた・・・・・軽いのりにも巧みに応じていたが、私は彼の心の奥を
知っていたと思う・・・それは彼が一番大切にしていた音楽への思いを知っていたからだ
★ みわやまを しかもかくすか くもだにも こころあらなむ かくさふべしや
ぬかたのおおきみ
● 三輪山を隠すなんてことがあるでしょうか? せめて、雲だけでも 情けがあって欲しい
隠すなんて事はあるはずがないと思いたい 額田王
雲だけでも情けがあって欲しい・・・と詠む・・・ということは、彼女の周りで心無い事が起きているということでしょう。
前回書いたように・・・雲隠れなむ・・・とは、死を意味する言葉です。
古代の人は死をそのようにとらえていた・・・・死そのものが現代と意味が違っていたとしても
・・・・簡単な事・軽んじる事ではなかったはず・・・ということは、彼女はやはり、奈良を離れるのが
余程辛かったに違いありません。
近江の国に下る時に、作る歌・・・とありますから、近江は・・・下る場所・・・なのです
彼女は何がそんなに辛かったのか・・・言葉も女性にしては強い口調です
天智天皇にお嫁入りするのが辛いのか・・・大海人皇子とのことで、何か辛い事がるのか・・
奈良と言う土地に思いがあるのか・・・・色々な想像が心を過ぎります
★ いにしえに こふらむとりは ほととぎす けだしやなきし わがおもへるごと
ぬかたのおおきみ
★遠い昔を恋い慕って飛ぶ鳥はほととぎすかもせれません。
もしかすると、鳴いたのかも・・・・・私が、昔を恋い慕っているように・・・・
額田王
またまた、額田王でございます。
これは、弓削皇子(ゆげのみこ)と言って、天武天皇の息子の歌に返歌したものです。
当時、20代・・・額田王はなんとあの時代では物凄く長寿の60代です。
この素晴らしい感性は凄いです。
弓削皇子(ゆげのみこ)の母は、額田王ではなく、天智天皇(元、大海人皇子)の娘である大江皇女です。
・・・あの曰く因縁つきの兄弟である。こういうのは何関係と言うのだろうか・・・現代風に言うと
元夫の腹違いの娘の息子ということかしらん・・・
本当にあの時代は、勿論、血を守ると言う意味合いが強かったにせよ、ややこしすぎて
頭の悪い私には大変です。
★吉野の宮に幸す(いでます)時、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王に贈与(おく)る歌
いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡り行く
★いにしへに こふるとりかも ゆづるはの みいのうえより なきわたりゆく
★遠い昔のことを恋い慕う鳥なのでしょうか? 弓絃葉の茂る吉野離宮の水汲み場の上を
鳴きながら渡っていく鳥は・・・・・・
さて・・・この後も弓削皇子(ゆげのみこ)は額田王に長寿を願った苔むした松の枝を送っている。
この二人親愛の情は何なのであろうか・・・・・これから、万葉を紐解いていくうちにわかるかもしれない。
額田王 和へ奉る(こたへたてまつる)歌一首
古に 恋ふらむ鳥は ほととぎす けだしや鳴きし 我が思へるごと
と、なるわけです。