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★ うつそみと 思ひし時 携へて わが二人見し 出で立ちの 百枝槻の木 こちごちに
枝させる如 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど
世の中を 背きし得ねば かぎろひの 燃ゆる荒野に 白栲の 天領巾隠り 鳥じもの
朝立ち行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 緑児の 乞ひ泣くごとに
取り委す 物しなければ 男じもの 脇はさみ持ち 吾妹子と 二人わが宿し 枕つく
嬬屋の内に 昼は うらさび暮らし 夜は 息づき明し 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども
逢ふよしを無み 大鳥の 羽易の山に 汝が恋ふる 妹は座すと 人のいへば 石根さくみて
なづみ来し 好けくもぞ無き うつそみと 思ひし妹が 灰にていませば
★ うつそみと おもひしとき たづさへて わがふたりみし いでたちの ももえつきのき
こちごちに えださせるごと はるのはの しげきがごとく おもへりし いもにはあれど
たのめりし いもにはあれど よのなかを そむきしえねば かぎろひの もゆるあらのに
しろたへの あまひれがくり とりじもの あさたちいきて いりひなす かくりにしかば
わぎもこが かたみにおける みどりごの こひなくごとに とりまかす ものしなければ
おとこじもの わきはあみもち わぎもこと ふたりわがねし まくらつく つまやのうちに
ひるは うらさびくらし よるは いきづきあかし なげけども むせすべしらに こふれども
あふよしをなみ おおとりの はがひのやまに ながこふる いもはいますと ひとのいへば
いはねさくみて なづみこし よけくもぞなき うつそみと おもひしいもが はいにていませば
巻2-213 柿本人麻呂
巻2-210 の異なって、伝えられたもの・・・・(異伝)
ほぼ、同じですが、この頃から土葬ではなく火葬になったものらしく、葬儀の仕方に対する
戸惑いの心が感じられるとの説もあります。
最後が、「灰にていませば」と、なっており、火葬に対する戸惑いの表現とも・・・
わたしは、大和言葉である日本語の歌を、例えば、昭和歌謡・わらべ歌・そして、万葉集を歌にしたものを歌います。
日本は言霊の国と言われています・・・それは、音霊に繋がっていきます。
日本語の歌をその音(おん)に拘って歌うこと・・・力を持つ歌い継がれたメロディーの曲を、.美しい日本語で歌うことが強いては、大和心を伝える事になると感じたからです。それは、何々しましょう・・・という伝わり方ではなく・・・ダイレクトに心に響きます。
① 私は西洋音楽出身者ですが、西洋音楽の中の声楽を学ぶ上で、なぜ、みんな日本人なのに、日本語の歌の歌詞や情感が無くなっているのだろうか・・・と感じました。日本の歌で有名な鮫島さんでさえ、日本語が特に高音部になると、母音の響きが全部曖昧な「う」とも、「お」とも、つかぬ響きになるため、ただ、声の響きだけを楽しむならよいのですが、(多くの外国曲は正直言って、よほどの人でないと、歌詞の意味を全部把握して聞いている人はいませんから、ひびき・・・でよいのです)
日本人が日本の歌を聞くのに歌詞がわからないなどという事があってよいの?と考えました。
これは、長い間私を悩ませました・・・多くの日本の声楽家はオペラアリアやリートなどをさせて、母国語である日本の歌は結構、適当で後回しになることが多いのです。
たとえば、音量が無い人は、日本歌曲ね・・・みたいな・・・
奏楽堂での日本歌曲コンクールなどが開催されるようになって何故か不思議な事に、
低位置にあった日本歌曲の地位は向上しました・・・が、コンクール入賞者の実態は某G大のキャリア付けに位置しているのが実態です。
私は、これを声楽を教える上での日本の声楽教育の欠陥だと感じます。
② 日本の大学には、声楽を音楽的に教える方と、ボイストレーナーとが、専門職として、分かれていないのです。これは、致命的です。
そういう日本声楽の実態の中で、日本語を美しく歌うために、西洋音楽の日本語を発音する上での弊害を受けないように、気をつけてきました。勿論、西洋で学ぶの声楽トレーニングは、ボイストレーナーがいて、勉強になることが沢山ありますが、あくまで西洋音楽のための発声であり、ボイストレーニングなのです。
日本の声楽家が年を取り、音量が出なくなって、日本歌曲に戻って歌う時、歌詞が全くもってわからないということが、度々ありました。薄い胸郭の貧弱な体の日本人が西洋的な声を出すための訓練のために、日本語がおかしく発音されるようになるのです。無理を長い事、体や声帯に強いてきたためです。
ある日本語に感受性の強い作家の方に、東敦子さんの日本歌曲のCDをお聞かせいたしましたら、これは、何語の歌ですか?とまじめに質問され、ショックを受けました。
日本人であるなら、まず母国語を美しい響きで、マイクも通さず、響かせる事・・・これが、私の
第一の目標です。
明日は何故万葉歌・・・です。
★ この世で生きていると思っていた時に、手を携えて二人で見た、すぐ近くの堤にそびえる欅の木
のあちこちの枝に春の葉が一面に繁るように、思い恋した妻であったけれど、
末長くと頼んだ人であったのだけれど、この世の運命に背く事はできず、陽炎の燃える春の野に
純白の領巾に包まれて、朝鳥のように飛び立ち、落日のように姿を消してしまったので、妻が
形見にと残した幼子が乳を乞いて泣くたびに、与えるものも無く、男でないように、腋に抱えて
愛しき妻と二人で寝て、枕を共にした嬬屋の中で、昼は一日うらさびしく暮らし、夜は切なく
明かして、嘆いても、どうしようもなく、いくら恋慕っても、逢うてだてもなく、大鳥が、愛を交わす
あの山に、私の愛しい妻がいると、人が言うので、石を踏み分け、苦しみながらやってきた・・
しかし・・・何事も良くならない・・・生きていると思っていた妻が、玉がゆらめくようなほのかさの
中にも見えない事を思うと・・・・