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昨日、今回のメインイベントである、ミャンマー(ビルマ)の、
タチレクの孤児院に、支援をしに行きました。
テラの会ホームページの「支援活動の写真」にも載っていますが、
其のときは尼さんが、院長で支援を一回も受けたことが無いと言う
話を聞き、早速今回旅立ったのでした。
最近、支援の様子ばかり書いておりますが、もちろん、
テラの会の第一の活動は、戦没者追悼慰霊にあります。
子も活動は、テラの会に取って、あまりに当たり前に
なりました。そのため、詳しく書くことはしません。
今回も当然、国境の橋の中央で、追悼を行いました。
今回は、代表によると、ビルマの民主化も祈ったそうです。
タイ側のメーサイでは、橋下で暮らすあまりにも貧しい
家族のために、一人10バーツから30バーツを渡したと
おっしゃっておりました。
確かに入国は実にスムーズになり、なんなくビルマに入国
そこで、乗り物を探すため、トゥクトゥクの運転手を探しました。
日本人と見て、いつもどおり吹っかけてきました。
代表はいつもどおり、すさまじい大声で怒鳴り散らしました。
なにしろ、代表の怒る声と言ったら、大地を揺るがすような
勢いです。
そして、また「奇跡」が、起こりました。
怒る代表の姿を見て、一人のインド系ビルマ人が近寄ってきたのです。
彼は、日本語・英語・タイ語・ビルマ語?すべて話せるのです。
全面的に協力しますから・・・本当に、突然言われました。
彼のおかげで、30キロの衣類や文房具、そして25キロのお米の
買い付け、インスタントラーメン・ビスケット・オレンジジュース
市場より安い場所で購入でき、タチレクの孤児院までもスムーズに
訪ねることができました。すべて、彼がガイドしてくれたのです。
さて、孤児院はというと、不思議なことに、代表が一週間ごとに
変わると言うのです。前回は、写真を見ても、明らかなように
丸坊主の尼さんでした。彼女は、われわれは一度も支援されたことが
ありません。と言ったので、今回、テラの会はそこを、早急に再び
訪れたのでした。今回は男性に変わっていました。
何はともあれ、お米も渡し、子供たち一人ひとりに
手渡しで衣類や靴を渡し、一人ひとりの子供たちに、「また会おうね、
私たちの事を忘れないでね」と告げて抱きしめました。
」
子供たちはどんなにか嬉しかった事でしょう。
後日、ユーチューブや写真に帰国後すぐにアップいたしますから
ぜひ、ご覧になってくださいね・・・・
代表は、子供たちとパーティーをしたいと言うと、オーケー
オーケーと言って、ビスケットとオレンジジュースで小さな
パーティーをいたしました。
代表は、「さくら さくら」を歌ったそうです。きと、演歌調の
さくらさくらになったことでしょう・・・・
お返しに子供たちも民族の歌を歌ってくれました。
子供たちとの交流はスムーズに進み、充実していました。
ただ、大人たちは少し変でした。
案内をしてくれた若者は、ありがたかったですが、普通の僕は
2,3000バーツで、ガイドをしますが今回は気持ちでいいです。
と言いました。3000バーツと言えばあちらでは凄い大金です。
テラの会は、何十カ国も、自分たちの足で回っているので、
其の不自然さが分かるのです。
結局、何かそれに関しては気持ちの悪い思いを残す事になりました。
孤児の代表が、一週間ごとに変わるのもなんだか
不自然です。バックに何か組織があるのかもしれません。
結局、犠牲になるのは子供たちなのです。
ここでは、多くを言えませんが・・・
さて、2時間で戻ると約束したトゥクトゥクの運転手も見事に
あちら風・・・4時間もして、「長かったね~」などと
すまし顔です。怒るのを通り越して、笑うしかありません。
いくら、電話しても通じず、逃げられたのかと、警察に届けを出し
捜索を・・・と言うところまでいっていたというのに・・・
呑気なもんです。
しかし、以前ヤンゴンで「テラの会」何事も無く支援できたのは
奇跡だと、ガイドの若者から言われました。民主化の前は支援も
政府に届出をし、許可を貰わなければならなかったからです。
確かに、民主化は確実に進んでいる。しかし、「国境」と言う
場所は、欲望渦巻く大人たちの世界であり、そこで、多くの
子供たちが、恐ろしい何かの犠牲になっている可能性は無いと
言えません。
テラの会は一人でも、そのような子供たちを支援できたら
と思います。丸々一日がかりの支援・・・文章で書くと
簡単ですが、すさまじく疲れます。
私も、経験があるので、よぉくわかります。
テラの会一行のみなさま、本当にお疲れ様でした。
何はともあれ、そのまっすぐな真心は子供たちに
確実に伝わっていることでしょう。
タチレクの孤児院に、支援をしに行きました。
テラの会ホームページの「支援活動の写真」にも載っていますが、
其のときは尼さんが、院長で支援を一回も受けたことが無いと言う
話を聞き、早速今回旅立ったのでした。
最近、支援の様子ばかり書いておりますが、もちろん、
テラの会の第一の活動は、戦没者追悼慰霊にあります。
子も活動は、テラの会に取って、あまりに当たり前に
なりました。そのため、詳しく書くことはしません。
今回も当然、国境の橋の中央で、追悼を行いました。
今回は、代表によると、ビルマの民主化も祈ったそうです。
タイ側のメーサイでは、橋下で暮らすあまりにも貧しい
家族のために、一人10バーツから30バーツを渡したと
おっしゃっておりました。
確かに入国は実にスムーズになり、なんなくビルマに入国
そこで、乗り物を探すため、トゥクトゥクの運転手を探しました。
日本人と見て、いつもどおり吹っかけてきました。
代表はいつもどおり、すさまじい大声で怒鳴り散らしました。
なにしろ、代表の怒る声と言ったら、大地を揺るがすような
勢いです。
そして、また「奇跡」が、起こりました。
怒る代表の姿を見て、一人のインド系ビルマ人が近寄ってきたのです。
彼は、日本語・英語・タイ語・ビルマ語?すべて話せるのです。
全面的に協力しますから・・・本当に、突然言われました。
彼のおかげで、30キロの衣類や文房具、そして25キロのお米の
買い付け、インスタントラーメン・ビスケット・オレンジジュース
市場より安い場所で購入でき、タチレクの孤児院までもスムーズに
訪ねることができました。すべて、彼がガイドしてくれたのです。
さて、孤児院はというと、不思議なことに、代表が一週間ごとに
変わると言うのです。前回は、写真を見ても、明らかなように
丸坊主の尼さんでした。彼女は、われわれは一度も支援されたことが
ありません。と言ったので、今回、テラの会はそこを、早急に再び
訪れたのでした。今回は男性に変わっていました。
何はともあれ、お米も渡し、子供たち一人ひとりに
手渡しで衣類や靴を渡し、一人ひとりの子供たちに、「また会おうね、
私たちの事を忘れないでね」と告げて抱きしめました。
」
子供たちはどんなにか嬉しかった事でしょう。
後日、ユーチューブや写真に帰国後すぐにアップいたしますから
ぜひ、ご覧になってくださいね・・・・
代表は、子供たちとパーティーをしたいと言うと、オーケー
オーケーと言って、ビスケットとオレンジジュースで小さな
パーティーをいたしました。
代表は、「さくら さくら」を歌ったそうです。きと、演歌調の
さくらさくらになったことでしょう・・・・
お返しに子供たちも民族の歌を歌ってくれました。
子供たちとの交流はスムーズに進み、充実していました。
ただ、大人たちは少し変でした。
案内をしてくれた若者は、ありがたかったですが、普通の僕は
2,3000バーツで、ガイドをしますが今回は気持ちでいいです。
と言いました。3000バーツと言えばあちらでは凄い大金です。
テラの会は、何十カ国も、自分たちの足で回っているので、
其の不自然さが分かるのです。
結局、何かそれに関しては気持ちの悪い思いを残す事になりました。
孤児の代表が、一週間ごとに変わるのもなんだか
不自然です。バックに何か組織があるのかもしれません。
結局、犠牲になるのは子供たちなのです。
ここでは、多くを言えませんが・・・
さて、2時間で戻ると約束したトゥクトゥクの運転手も見事に
あちら風・・・4時間もして、「長かったね~」などと
すまし顔です。怒るのを通り越して、笑うしかありません。
いくら、電話しても通じず、逃げられたのかと、警察に届けを出し
捜索を・・・と言うところまでいっていたというのに・・・
呑気なもんです。
しかし、以前ヤンゴンで「テラの会」何事も無く支援できたのは
奇跡だと、ガイドの若者から言われました。民主化の前は支援も
政府に届出をし、許可を貰わなければならなかったからです。
確かに、民主化は確実に進んでいる。しかし、「国境」と言う
場所は、欲望渦巻く大人たちの世界であり、そこで、多くの
子供たちが、恐ろしい何かの犠牲になっている可能性は無いと
言えません。
テラの会は一人でも、そのような子供たちを支援できたら
と思います。丸々一日がかりの支援・・・文章で書くと
簡単ですが、すさまじく疲れます。
私も、経験があるので、よぉくわかります。
テラの会一行のみなさま、本当にお疲れ様でした。
何はともあれ、そのまっすぐな真心は子供たちに
確実に伝わっていることでしょう。
タイのチェンライに滞在中の、テラの会一行は、いよいよ
本日、国境を越え、つい先だって行った、ミャンマーのタチレクの
孤児院に、食糧支援に行きます。どこからも、支援を受けたことが
無い孤児院と以前にも書いたところです。
まず、タイ側の国境メイサイで、支援、また、戦没者追悼慰霊を
再び執り行い、お米と、インスタントラーメン、ビスケット
オレンジジュースなどなど、現地にて購入の上、孤児院で
支援します。すぐに海を渡って、本当に自分たちのために
支援に来てくれた事を子供たちは、大変喜ぶことと思います。
楽しみです。
タイは朝と夜は20度ほど温度が今の時期は下がるので
大変です。当然一日の中で冬物と夏物が必要なことが
今回、はっきりわかりました。
行ってみないと何でもわからないですね・・・・
代表は足を痛めておりますが、休んだことで痛みも抑えられ
本日の支援と慰霊を、心から楽しみにしている様子でした。
きっと、また、子供たちに会えることがそして、彼らが
喜ぶ顔を見ることが楽しみなのだと思います。
私も、本日の報告が楽しみです。
無理のないように、がんばってくださいね!!
本日、国境を越え、つい先だって行った、ミャンマーのタチレクの
孤児院に、食糧支援に行きます。どこからも、支援を受けたことが
無い孤児院と以前にも書いたところです。
まず、タイ側の国境メイサイで、支援、また、戦没者追悼慰霊を
再び執り行い、お米と、インスタントラーメン、ビスケット
オレンジジュースなどなど、現地にて購入の上、孤児院で
支援します。すぐに海を渡って、本当に自分たちのために
支援に来てくれた事を子供たちは、大変喜ぶことと思います。
楽しみです。
タイは朝と夜は20度ほど温度が今の時期は下がるので
大変です。当然一日の中で冬物と夏物が必要なことが
今回、はっきりわかりました。
行ってみないと何でもわからないですね・・・・
代表は足を痛めておりますが、休んだことで痛みも抑えられ
本日の支援と慰霊を、心から楽しみにしている様子でした。
きっと、また、子供たちに会えることがそして、彼らが
喜ぶ顔を見ることが楽しみなのだと思います。
私も、本日の報告が楽しみです。
無理のないように、がんばってくださいね!!
テラの会は、2月7日に夜中に、バンコクへと旅立ちました。
デルタ航空で、直行便でしたが、今回、初めてのアクシデントが起こりました。
いつものように、重量オーバーの荷物は、なぜかスムーズに税関を通ったのですが、
航空機内で、病人がでて、医者はいないかと言うアナウンスにもかかわらず、命に
かかわる病状のため急遽、台北に臨時着陸病人を降ろして、また、万国へ向かいました
このため、待つこと2時間、10時間の夜中の長い旅となり、テラの会の面々は疲れ果
てたようです。夜明け前の4時に到着、予約していたマンションアパートは
初めてのところだったのでしまっており、寺の会一行は仕方なく、別のホテルに
泊まりました。
いつもより、高いところでしたが、すさまじい荷物と長旅の疲れを癒さなければ
活動も何もできません。
本日はチェンライに移動、以前たずねたゲストハウスは600バーツから
500バーツになっており、約1000円・・・まぁ、ここで元を取ったと
言うことでしょうか??
チェンライは、バンコクのいかがわしい賑々しさと違って、田舎で静かなので
代表も大分声に元気がありました。
明日からの活動のため英気を養っていただきたいと思います。
またの、活動報告を楽しみにいております。
ひとまず、ゆっくり旅の疲れをお取りくださいね。
デルタ航空で、直行便でしたが、今回、初めてのアクシデントが起こりました。
いつものように、重量オーバーの荷物は、なぜかスムーズに税関を通ったのですが、
航空機内で、病人がでて、医者はいないかと言うアナウンスにもかかわらず、命に
かかわる病状のため急遽、台北に臨時着陸病人を降ろして、また、万国へ向かいました
このため、待つこと2時間、10時間の夜中の長い旅となり、テラの会の面々は疲れ果
てたようです。夜明け前の4時に到着、予約していたマンションアパートは
初めてのところだったのでしまっており、寺の会一行は仕方なく、別のホテルに
泊まりました。
いつもより、高いところでしたが、すさまじい荷物と長旅の疲れを癒さなければ
活動も何もできません。
本日はチェンライに移動、以前たずねたゲストハウスは600バーツから
500バーツになっており、約1000円・・・まぁ、ここで元を取ったと
言うことでしょうか??
チェンライは、バンコクのいかがわしい賑々しさと違って、田舎で静かなので
代表も大分声に元気がありました。
明日からの活動のため英気を養っていただきたいと思います。
またの、活動報告を楽しみにいております。
ひとまず、ゆっくり旅の疲れをお取りくださいね。
娘が出産するまでの間、更に仰天するような出来事が、いくつも続き、私自身、
時系列もよく覚えていない。ただ、いつも私は、ひたすら、一生懸命だった。
結果が良いとか悪いとか、死ぬまで、いや死んでも分からないかもしれないけれど
私と言う、「母親」はあのようにしか行動できなかった・・・と言うことだ。
義理の息子は私をとても慕ってくれた。しかし、育った環境や価値観はいかんともしが
たいものはあった。
自分の出産が日赤病院で、嫌な、まるでもの扱いのような出産だったので、娘の
出産は、いい思い出にしてやりたかった。運のいいことに、一軒家の一室で産むと言う
助産院のよいところが見つかったので、そこにした。
深いことは何も聞かず、とても親身になってくれる暖かい助産院だった。
そこで、娘は、妹と私と彼に見守られながら、普通のベットの上で、とても自然に
金属にも囲まれず、バスタオルを敷いて、出血も少なく、とてもいい出産をした。
私は、いい出産ができて本当に良かったと思った。
生まれた男の子は、とても健康で美男子だった・・・すでに、ばぁばの欲目である。
産んでも産まなくても、どちらにしても大変な人生なら、産む・・・と言う
方向に前進させてやりたかった。「いのち」を授かったのだから・・・
時系列もよく覚えていない。ただ、いつも私は、ひたすら、一生懸命だった。
結果が良いとか悪いとか、死ぬまで、いや死んでも分からないかもしれないけれど
私と言う、「母親」はあのようにしか行動できなかった・・・と言うことだ。
義理の息子は私をとても慕ってくれた。しかし、育った環境や価値観はいかんともしが
たいものはあった。
自分の出産が日赤病院で、嫌な、まるでもの扱いのような出産だったので、娘の
出産は、いい思い出にしてやりたかった。運のいいことに、一軒家の一室で産むと言う
助産院のよいところが見つかったので、そこにした。
深いことは何も聞かず、とても親身になってくれる暖かい助産院だった。
そこで、娘は、妹と私と彼に見守られながら、普通のベットの上で、とても自然に
金属にも囲まれず、バスタオルを敷いて、出血も少なく、とてもいい出産をした。
私は、いい出産ができて本当に良かったと思った。
生まれた男の子は、とても健康で美男子だった・・・すでに、ばぁばの欲目である。
産んでも産まなくても、どちらにしても大変な人生なら、産む・・・と言う
方向に前進させてやりたかった。「いのち」を授かったのだから・・・