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のっけから、お金の話です。
「国際ボランティア テラの会」の目的
① 戦没者の追悼慰霊
② 追悼慰霊地近郊の貧民街における、ストリートチルドレンや孤児達への
食糧支援・衣服支援・その他
この活動は8年目になります。前回、寄付の事を少し書きましたが、
今のところ、テラの会のメンバーの持ち出しが殆どです。
寄付頂いたお金は確実に、支援に使われています。
何の縁か分かりませんが、ここまで、私も良く続けてこられたと
思っています。しかし、限界に近づいています。
この活動を通して、多くの事を学ぶ事ができました。
世の中のからくり、世界のからくり、宗教と言うものの事、
そして、戦争の事、お金の事、自分が、知らないことだらけで
あったこと。
今でも、知らないことだらけであること・・・・。
初めは、戦没者追悼慰霊なんてして・・・と、思っていました。
物を捨てきれない性分で、衣服支援は是非したいと思いました。
テレビでつぶらな瞳から涙をこぼす黒人の赤ちゃんを見て、なんとかして
あげたくても、寄付する気になりませんでした。
確かに、助かっている子供達もいるのでしょうが、みんなが寄付したお金が
本当にきちんと使われているのか、確かめる術もなく、着服などの
情報も伝わってきました。
きちんとした、NPOの団体もあるのでしょうが、そうでない団体も沢山
あるのに、公の機関は、NPOでないと、認めません。
一般の日本人の意識は、豊かになりすぎて、感謝の気持ちが
薄れてきていました。だから、ボランティアへの関心も薄いと
思いました。
日本人の性分で、何かの流行のように「東北大震災」ばかりを
高らかにマスメディアは謳いあげますが、
それでも、日本は豊かです。
同じアジア人でありながら、貧しい上に、洪水や津波震災を
受けた、もっと弱くて力の無い人々は主張する気力もなく、
かろうじて生きています。
日本は貧富の差が広がったと、言いますが、他のアジア諸国は
そんな状態ではありません。
一介の歌手である私に出来る事を続けたいと、今までやってきました
・・・・が、最近「地獄」という二文字が、心に浮かんできます。
人から、奪うことばかりを考えている人があまりに多いからです。
自分のことしか、考えられない人があまりに多いからです。
自分が、幸せを感じられなければ、人に幸せを感じて貰う事は
出来ないでしょう・・・・・
「国際ボランティア テラの会」の目的
① 戦没者の追悼慰霊
② 追悼慰霊地近郊の貧民街における、ストリートチルドレンや孤児達への
食糧支援・衣服支援・その他
この活動は8年目になります。前回、寄付の事を少し書きましたが、
今のところ、テラの会のメンバーの持ち出しが殆どです。
寄付頂いたお金は確実に、支援に使われています。
何の縁か分かりませんが、ここまで、私も良く続けてこられたと
思っています。しかし、限界に近づいています。
この活動を通して、多くの事を学ぶ事ができました。
世の中のからくり、世界のからくり、宗教と言うものの事、
そして、戦争の事、お金の事、自分が、知らないことだらけで
あったこと。
今でも、知らないことだらけであること・・・・。
初めは、戦没者追悼慰霊なんてして・・・と、思っていました。
物を捨てきれない性分で、衣服支援は是非したいと思いました。
テレビでつぶらな瞳から涙をこぼす黒人の赤ちゃんを見て、なんとかして
あげたくても、寄付する気になりませんでした。
確かに、助かっている子供達もいるのでしょうが、みんなが寄付したお金が
本当にきちんと使われているのか、確かめる術もなく、着服などの
情報も伝わってきました。
きちんとした、NPOの団体もあるのでしょうが、そうでない団体も沢山
あるのに、公の機関は、NPOでないと、認めません。
一般の日本人の意識は、豊かになりすぎて、感謝の気持ちが
薄れてきていました。だから、ボランティアへの関心も薄いと
思いました。
日本人の性分で、何かの流行のように「東北大震災」ばかりを
高らかにマスメディアは謳いあげますが、
それでも、日本は豊かです。
同じアジア人でありながら、貧しい上に、洪水や津波震災を
受けた、もっと弱くて力の無い人々は主張する気力もなく、
かろうじて生きています。
日本は貧富の差が広がったと、言いますが、他のアジア諸国は
そんな状態ではありません。
一介の歌手である私に出来る事を続けたいと、今までやってきました
・・・・が、最近「地獄」という二文字が、心に浮かんできます。
人から、奪うことばかりを考えている人があまりに多いからです。
自分のことしか、考えられない人があまりに多いからです。
自分が、幸せを感じられなければ、人に幸せを感じて貰う事は
出来ないでしょう・・・・・
今回の、「国際ボランティア テラの会」 フィリピンの旅は、
ミンダナオ島のカガヤン・デ・オロに、始まり、ダバオそして、
セブ島のセブシティーへと、移りました。
セブ州は、セブ島・マクタン島・バンタヤン島などの大小167の島を
含みます。そのセブ州の州都がセブシティーです。
フィリピンのセブ島は、1521年のスペイン王の命令で東方の地に植民地を求めた
ポルトガル人のマゼランに発見されたことにより歴史の表舞台に登場します。
その当時の、ラジ領主である、ラジャ・フマボンを懐柔して、その一族に、
キリスト教の洗礼を受けさせ、布教により植民地化しようとしましたが、
マゼランに従わないマクタン島の領主ラプラプが、最後まで抵抗し
マゼランは討ち死にしました。
ラプラプは今でも、民族の誇りとして崇められています。
その時は、植民地化を免れましたが、その後、
再びスペイン人の侵略により植民地化が進み、
1565年から、スペインの植民地となりました。
この後、フィリピンの多くがカトリック信者となります。
1898年 スペインから独立。
しかし翌年のパリ条約で
米国の支配下におかれます。
第二次世界大戦中、1942年日本が入国・・・
しかし、1945年敗退。
フィリピンは戦争の歴史の混乱の中で、
米港の強い影響の下に、
1946年、再び、独立しました。
「テラの会」は、マゼランが最初に入植した
セブ島の中のセブシティーにいます。
常の事ですが、「テラの会」
観光の為に来ているわけではないので
削れる費用は全て削ります。
だから、例えば会の中でたった一人の
女性である私は、付いて行くために
却ってご迷惑をおかけする事になる・・
これは、男尊女卑とかいう問題では
ありません。部屋も、必ず一人でも一室
必要ですし、事故などの問題もあります。
そのような事情もあり、私が付いて行く活動は
タイと、インドネシアに限る理由の一つ
になっております。
話を戻しますが、
テラの会の場合、おおよそ、ホテルはどこの国でも、
ツィンで(大体費用は部屋単位です)日本円にして
1000~2000円と言う金額を捜します。
かなり、安く、普通の観光客はまずおりません。
その金額のホテルは現地の方の為の場合か
かなりの貧乏旅行を楽しむ人しか泊まらないでしょう。
食事は、現地の人の食べる屋台や食堂で日本円にして
一人100円から150円ほどで済ませます。
体力的に持たない場合は、2000円を超えるホテルに
宿泊の場合もありますし、私が行く場合、シャワーは
お湯が出る所とか、配慮をしてくださるようです。
これは、寄付頂いた方のお金を出来うる限り有効に
使いたいと言う気持ちもありますし、また、スラムが
近いところに建っている場合が多く、貧しい方々の
生活をじかに体験し見ることが出来るということもあります。
じかに生活を見て話を聞くことで、日本からまた他国からの
支援が国の福祉にどのように生かされているのか
間近に知ることが出来ます。その上で、衣服や学用品や
生活用品を支援できます。
セブシティーも、他の東南アジアの貧民街やスラムと同様
本当に貧しい人々へは、福祉は行き渡りません。
今回は、衣服は渡し終えましたし、5~7歳にしか見えない
10~13歳ぐらいの栄養失調の子が沢山いました。
テラの会は、食糧支援が必要ということで、活動をしました。
ミンダナオ島のカガヤン・デ・オロに、始まり、ダバオそして、
セブ島のセブシティーへと、移りました。
セブ州は、セブ島・マクタン島・バンタヤン島などの大小167の島を
含みます。そのセブ州の州都がセブシティーです。
フィリピンのセブ島は、1521年のスペイン王の命令で東方の地に植民地を求めた
ポルトガル人のマゼランに発見されたことにより歴史の表舞台に登場します。
その当時の、ラジ領主である、ラジャ・フマボンを懐柔して、その一族に、
キリスト教の洗礼を受けさせ、布教により植民地化しようとしましたが、
マゼランに従わないマクタン島の領主ラプラプが、最後まで抵抗し
マゼランは討ち死にしました。
ラプラプは今でも、民族の誇りとして崇められています。
その時は、植民地化を免れましたが、その後、
再びスペイン人の侵略により植民地化が進み、
1565年から、スペインの植民地となりました。
この後、フィリピンの多くがカトリック信者となります。
1898年 スペインから独立。
しかし翌年のパリ条約で
米国の支配下におかれます。
第二次世界大戦中、1942年日本が入国・・・
しかし、1945年敗退。
フィリピンは戦争の歴史の混乱の中で、
米港の強い影響の下に、
1946年、再び、独立しました。
「テラの会」は、マゼランが最初に入植した
セブ島の中のセブシティーにいます。
常の事ですが、「テラの会」
観光の為に来ているわけではないので
削れる費用は全て削ります。
だから、例えば会の中でたった一人の
女性である私は、付いて行くために
却ってご迷惑をおかけする事になる・・
これは、男尊女卑とかいう問題では
ありません。部屋も、必ず一人でも一室
必要ですし、事故などの問題もあります。
そのような事情もあり、私が付いて行く活動は
タイと、インドネシアに限る理由の一つ
になっております。
話を戻しますが、
テラの会の場合、おおよそ、ホテルはどこの国でも、
ツィンで(大体費用は部屋単位です)日本円にして
1000~2000円と言う金額を捜します。
かなり、安く、普通の観光客はまずおりません。
その金額のホテルは現地の方の為の場合か
かなりの貧乏旅行を楽しむ人しか泊まらないでしょう。
食事は、現地の人の食べる屋台や食堂で日本円にして
一人100円から150円ほどで済ませます。
体力的に持たない場合は、2000円を超えるホテルに
宿泊の場合もありますし、私が行く場合、シャワーは
お湯が出る所とか、配慮をしてくださるようです。
これは、寄付頂いた方のお金を出来うる限り有効に
使いたいと言う気持ちもありますし、また、スラムが
近いところに建っている場合が多く、貧しい方々の
生活をじかに体験し見ることが出来るということもあります。
じかに生活を見て話を聞くことで、日本からまた他国からの
支援が国の福祉にどのように生かされているのか
間近に知ることが出来ます。その上で、衣服や学用品や
生活用品を支援できます。
セブシティーも、他の東南アジアの貧民街やスラムと同様
本当に貧しい人々へは、福祉は行き渡りません。
今回は、衣服は渡し終えましたし、5~7歳にしか見えない
10~13歳ぐらいの栄養失調の子が沢山いました。
テラの会は、食糧支援が必要ということで、活動をしました。
カガヤン・デ・オロから、ダバオに移動して
ジェイソンさんのご自宅の晩餐にお招きに預かり、
日本とフィリピンの戦争の歴史や天皇陛下の事など
様々なお話をさせていただき、大変勉強になったようです。
翌日は、ダバオにて戦没者追悼慰霊の活動を
行いました。
9時半にジェイソンさんを始めとして、ジェイソンさんのお母様、また、
お母様のご友人まで、いらしてくださいました。
まず、向かったのは、日本歴史資料館です。今回の活動日記の
ダバオの始めのブログにも書きましたが、
ダバオは戦前、太田恭三郎により、マニラ麻で、栄えました。
日本歴史資料館の近くに、太田恭三郎の碑が建っています。
そこでの、清め祓いを済ませた後、日本人の墓地や戦没者追悼慰霊碑
を訪ねました。そこで、また、清め祓いと追悼慰霊を行いました。
詳しいことは、戦没者追悼慰霊活動の主宰者である、木村氏が帰国後、
メインブログに、旅日記として、きちんと記されますので、後でそちらを
お読みいただけたらと存じます。
アポ山に、日本兵及び、フィリピン人捕虜達が、
第二次世界大戦の折、
山を手作業で貫通した、トンネルがあります。
このトンネルを作るために、命を落とした方々の
為に、清め祓いと追悼慰霊を行いました。
テラの会は、宗教団体ではありませんので、
所作はごく簡易に行います。
御幣(依り代)は、近くの木で、
他には何も用意しません。
主宰の木村氏は、時に
祝詞で、時にお経で、時にカソリックの
典礼の言葉で、追悼慰霊を致します。
そして、追悼の後に、御幣(依り代)を川に流します。
御幣(依り代)は、慰霊の場所によって、
川に速やかに流れる場合と、
いつまでも留まる場合、
沈んだり浮かんだりする場合と
イロイロとあります。
朝の九時半から、午後二時半まで・・・
フィリピンが暑い国と言う事もありますが、
それ以上に、追悼慰霊と言う活動は
エネルギーを消耗します。
そこから、ジェイソンさん達とホテルに戻りました。
大変申し訳なかったのですが
お話をする元気もなく、休ませていただきました。
テラの会は、歴史の史実を詳しく調べて、追悼慰霊活動を
行っていますが、実際に現地に行ってみて、五感で感じる事
また、戦争当時に生きておられた現地の方にお話を伺うこと・・・は、
何よりも、大切な情報であり、またこの「活動」自体が、
「国と国の戦いの為に、個人の命が失われる」という、悲劇の
犠牲者になられた、方々の追悼慰霊の活動になるのだと
思います。
私ごときの手による、この拙い文章での報告も、「書くこと」が、
またそれをお読みなる方が、「戦争で尊い命を失われた方」へ
「思いを寄せる」ことが、
「追悼」の行為であり、「慰霊」の心である
だと、思います。
ジェイソンさんのご自宅の晩餐にお招きに預かり、
日本とフィリピンの戦争の歴史や天皇陛下の事など
様々なお話をさせていただき、大変勉強になったようです。
翌日は、ダバオにて戦没者追悼慰霊の活動を
行いました。
9時半にジェイソンさんを始めとして、ジェイソンさんのお母様、また、
お母様のご友人まで、いらしてくださいました。
まず、向かったのは、日本歴史資料館です。今回の活動日記の
ダバオの始めのブログにも書きましたが、
ダバオは戦前、太田恭三郎により、マニラ麻で、栄えました。
日本歴史資料館の近くに、太田恭三郎の碑が建っています。
そこでの、清め祓いを済ませた後、日本人の墓地や戦没者追悼慰霊碑
を訪ねました。そこで、また、清め祓いと追悼慰霊を行いました。
詳しいことは、戦没者追悼慰霊活動の主宰者である、木村氏が帰国後、
メインブログに、旅日記として、きちんと記されますので、後でそちらを
お読みいただけたらと存じます。
アポ山に、日本兵及び、フィリピン人捕虜達が、
第二次世界大戦の折、
山を手作業で貫通した、トンネルがあります。
このトンネルを作るために、命を落とした方々の
為に、清め祓いと追悼慰霊を行いました。
テラの会は、宗教団体ではありませんので、
所作はごく簡易に行います。
御幣(依り代)は、近くの木で、
他には何も用意しません。
主宰の木村氏は、時に
祝詞で、時にお経で、時にカソリックの
典礼の言葉で、追悼慰霊を致します。
そして、追悼の後に、御幣(依り代)を川に流します。
御幣(依り代)は、慰霊の場所によって、
川に速やかに流れる場合と、
いつまでも留まる場合、
沈んだり浮かんだりする場合と
イロイロとあります。
朝の九時半から、午後二時半まで・・・
フィリピンが暑い国と言う事もありますが、
それ以上に、追悼慰霊と言う活動は
エネルギーを消耗します。
そこから、ジェイソンさん達とホテルに戻りました。
大変申し訳なかったのですが
お話をする元気もなく、休ませていただきました。
テラの会は、歴史の史実を詳しく調べて、追悼慰霊活動を
行っていますが、実際に現地に行ってみて、五感で感じる事
また、戦争当時に生きておられた現地の方にお話を伺うこと・・・は、
何よりも、大切な情報であり、またこの「活動」自体が、
「国と国の戦いの為に、個人の命が失われる」という、悲劇の
犠牲者になられた、方々の追悼慰霊の活動になるのだと
思います。
私ごときの手による、この拙い文章での報告も、「書くこと」が、
またそれをお読みなる方が、「戦争で尊い命を失われた方」へ
「思いを寄せる」ことが、
「追悼」の行為であり、「慰霊」の心である
だと、思います。
何の縁なのか、私には解らないけれど
音楽と読書が好きなだけの私が、
「国際ボランティア テラの会」で
戦没者追悼慰霊とミャンマー難民支援の
お手伝いをさせて頂いている。
歴史は苦手だった。やたらと、覚えることが
多かったからだ。センター試験世代なので、
意味などより、丸暗記が出来なければならない。
戦争の事など、両親から詳しく聞いて育った訳でもない。
と言うより、父は何にも戦争の事を語ろうとしなかった。
何かを飲み込んだような顔をして暮らしていた。
母に言わせると、若い時から、老成していたらしい。
父は、肺腺癌で、2008年2月29日にこの世を去った。
うるう年なので、4年に一回しか命日が来ない。
父らしい、死に方だと思う。
「4年に一回ぐらいは思い出してくれよ」と、
言っている様な気がする。
九州は大分で、成績が一番で、熊本の陸軍幼年学校に
入った。在学中に、戦争が終わった世代である。
父の兄は、チューク諸島(トラック諸島)で、空軍のパイロット
だったが、撃墜されて亡くなった。
そんなこんなのお話は父から聞いたことではない。
他の親戚から聞いた。
戦争が終わり、父は京都大学の法学部に進み、
電力会社に就職し、母と結婚した。
同級生に建築家の磯崎新氏がおられて、よく
我が家に遊びに来ていたと母が言っていた。
私が生まれていなかったら、絵描きに転職したかった
ぐらい、手先が器用で天賦の才能があった。
退職後に、水彩から始めた父の絵は
今は多くの親戚の家や、我が家の
玄関にも飾っている。
よく目をつぶって、腕を組み
ソファーにまんじりともせず
座っていた父の事を思い出す。
今になって、父は何を考えていたのだろう・・・と、思う。
戦没者の追悼慰霊をしながら、
私はやっと
日本の戦争の歴史を辿っている。
何だか、父の心を辿っているような気持ちさえ
するのだ。
音楽と読書が好きなだけの私が、
「国際ボランティア テラの会」で
戦没者追悼慰霊とミャンマー難民支援の
お手伝いをさせて頂いている。
歴史は苦手だった。やたらと、覚えることが
多かったからだ。センター試験世代なので、
意味などより、丸暗記が出来なければならない。
戦争の事など、両親から詳しく聞いて育った訳でもない。
と言うより、父は何にも戦争の事を語ろうとしなかった。
何かを飲み込んだような顔をして暮らしていた。
母に言わせると、若い時から、老成していたらしい。
父は、肺腺癌で、2008年2月29日にこの世を去った。
うるう年なので、4年に一回しか命日が来ない。
父らしい、死に方だと思う。
「4年に一回ぐらいは思い出してくれよ」と、
言っている様な気がする。
九州は大分で、成績が一番で、熊本の陸軍幼年学校に
入った。在学中に、戦争が終わった世代である。
父の兄は、チューク諸島(トラック諸島)で、空軍のパイロット
だったが、撃墜されて亡くなった。
そんなこんなのお話は父から聞いたことではない。
他の親戚から聞いた。
戦争が終わり、父は京都大学の法学部に進み、
電力会社に就職し、母と結婚した。
同級生に建築家の磯崎新氏がおられて、よく
我が家に遊びに来ていたと母が言っていた。
私が生まれていなかったら、絵描きに転職したかった
ぐらい、手先が器用で天賦の才能があった。
退職後に、水彩から始めた父の絵は
今は多くの親戚の家や、我が家の
玄関にも飾っている。
よく目をつぶって、腕を組み
ソファーにまんじりともせず
座っていた父の事を思い出す。
今になって、父は何を考えていたのだろう・・・と、思う。
戦没者の追悼慰霊をしながら、
私はやっと
日本の戦争の歴史を辿っている。
何だか、父の心を辿っているような気持ちさえ
するのだ。
「テラの会」はフィリピンは、
ネグロス島のバコロド
パナイ島のイロイロ etc
と、何回か「戦没者の追悼慰霊」と
「難民支援」に出かけています。
今回の旅は、ミンダナオ島でした。
ダバオまで書きましたが、今回少し戻って書きます。
カガヤン・デ・オロです。
そこでの支援活動については、記しましたが、大切な事を
書くのを忘れていました。
「戦没者の追悼慰霊」の活動についてです。
フィリピンは、多くの島から成る国です。
第二次世界大戦の爪あとは
その島々のいたるところに残されています。
「国際ボランティア テラの会」は、
フィリピンは度々訪れています。詳しいことは
主宰の木村天山氏のメインブログの旅日記の
カテゴリー別アーカイブをクリックして
「救われないマニラ、救いようの無いフィリピン」などを
お読みになると参考になると思います。
主宰の木村天山氏にとって、最も大切にしている「行為」は
「戦没者の追悼慰霊」です。
今回、最初に訪れたカガヤン・デ・オロも、第二次世界大戦で
多くの日本人また、現地人が命を落としています。
勿論、慰霊碑の建立も、NGOによって沢山成されております。
戦争の史実を、あることがきっかけで、紐解き始めた事で、
テラの会の 主宰者 木村氏の「追悼慰霊」の旅が始まったのです。
「手渡し難民支援」は、その後に始まりました。
カガヤン・デ・オロは、戦争と共に、去年一昨年と、台風で酷い洪水に
合い、沢山の方が命を落とし、住む所も何もかも失いました。
日本の東北の震災も、勿論大変です。誤解を恐れずに書きますが
しかし、フィリピンの貧しい方々は、貧しい上に、更に貧しくなった
ままなのです。
国連を通じての支援も、本当にそれが必要な人の所には
中々行き渡らないのです。
組織は大きくなればなるほど不透明さを増します。
勿論、大きな組織の役目もあります。
しかし、個人の意志の集まりで、寄与する行為も
あってもよいのではないでしょうか?
「追悼慰霊」は、台風による水害で亡くなられた方々と、第二次世界大戦で
命を落とされた方々に向けて捧げられました。
ネグロス島のバコロド
パナイ島のイロイロ etc
と、何回か「戦没者の追悼慰霊」と
「難民支援」に出かけています。
今回の旅は、ミンダナオ島でした。
ダバオまで書きましたが、今回少し戻って書きます。
カガヤン・デ・オロです。
そこでの支援活動については、記しましたが、大切な事を
書くのを忘れていました。
「戦没者の追悼慰霊」の活動についてです。
フィリピンは、多くの島から成る国です。
第二次世界大戦の爪あとは
その島々のいたるところに残されています。
「国際ボランティア テラの会」は、
フィリピンは度々訪れています。詳しいことは
主宰の木村天山氏のメインブログの旅日記の
カテゴリー別アーカイブをクリックして
「救われないマニラ、救いようの無いフィリピン」などを
お読みになると参考になると思います。
主宰の木村天山氏にとって、最も大切にしている「行為」は
「戦没者の追悼慰霊」です。
今回、最初に訪れたカガヤン・デ・オロも、第二次世界大戦で
多くの日本人また、現地人が命を落としています。
勿論、慰霊碑の建立も、NGOによって沢山成されております。
戦争の史実を、あることがきっかけで、紐解き始めた事で、
テラの会の 主宰者 木村氏の「追悼慰霊」の旅が始まったのです。
「手渡し難民支援」は、その後に始まりました。
カガヤン・デ・オロは、戦争と共に、去年一昨年と、台風で酷い洪水に
合い、沢山の方が命を落とし、住む所も何もかも失いました。
日本の東北の震災も、勿論大変です。誤解を恐れずに書きますが
しかし、フィリピンの貧しい方々は、貧しい上に、更に貧しくなった
ままなのです。
国連を通じての支援も、本当にそれが必要な人の所には
中々行き渡らないのです。
組織は大きくなればなるほど不透明さを増します。
勿論、大きな組織の役目もあります。
しかし、個人の意志の集まりで、寄与する行為も
あってもよいのではないでしょうか?
「追悼慰霊」は、台風による水害で亡くなられた方々と、第二次世界大戦で
命を落とされた方々に向けて捧げられました。