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歌手になったのは、39歳のとき。凄く遅いスタートだ。
それ以前に歌っていた合唱団はとてもハイレベル。
小澤征爾に認められてから、次々とすごい仕事が舞い込み、
世界的な指揮者の指導を受け世界でトップレベルのオーケストラと
同じ舞台に立たせてもらった。
それは、私にとってとても貴重な経験でした。耳も鍛えられ
一流の方の合唱指導を受けた。大切な財産だと思う。
どこかで、役に立てたいと思い、コーラスを作ることにした。
合唱団の中で、ストレスを感じ始めた。身体の中で
もやもやと動くものが合った。団員がピリピリしていて、
きつい言葉が飛び交う。舞台は一流のプロばかり、自分たちも
一流の合唱団だと言う、プライドもあったのだろう。
ハーモニーを楽しむなんて、雰囲気ではない。
とてもシビアだった。
ヤマハで、ふと手にした地味なチラシ・・・
それが、人生を変えたのだった。
藤岡宣男と言う、声種では、素人はあまり聞き覚えの無い
カウンターテナー。
私の好きな曲ばかり並んでいた。
オペラのアリア・日本歌曲・ドイツリート
女子高の非常勤講師をしていた私は、仕事帰り
みなとみらいホールに飛び込んだ。
それ以前に歌っていた合唱団はとてもハイレベル。
小澤征爾に認められてから、次々とすごい仕事が舞い込み、
世界的な指揮者の指導を受け世界でトップレベルのオーケストラと
同じ舞台に立たせてもらった。
それは、私にとってとても貴重な経験でした。耳も鍛えられ
一流の方の合唱指導を受けた。大切な財産だと思う。
どこかで、役に立てたいと思い、コーラスを作ることにした。
合唱団の中で、ストレスを感じ始めた。身体の中で
もやもやと動くものが合った。団員がピリピリしていて、
きつい言葉が飛び交う。舞台は一流のプロばかり、自分たちも
一流の合唱団だと言う、プライドもあったのだろう。
ハーモニーを楽しむなんて、雰囲気ではない。
とてもシビアだった。
ヤマハで、ふと手にした地味なチラシ・・・
それが、人生を変えたのだった。
藤岡宣男と言う、声種では、素人はあまり聞き覚えの無い
カウンターテナー。
私の好きな曲ばかり並んでいた。
オペラのアリア・日本歌曲・ドイツリート
女子高の非常勤講師をしていた私は、仕事帰り
みなとみらいホールに飛び込んだ。
大和心と書いて、「おほいなるやはらぎのこころ」と、読む。
ただ、それだけを思って活動している。
いいや、しばらく心が死んでいたので、再び活動を始めた
ばかりである。いや、始めようとしている。
たった一人の思いが、死ぬまでにこの世で何処まで
繋がるのであろうか・・・・
少数民族の村人たちの考え方である。
伝統を忘れないことは、日本人と言う民族の心性を
忘れないということである。
それが、大和心だと思っている。
「歌う」という行為、それは、私が歌うこともあれば
人に気持ちよく歌ってもらうこともある。
私に出来ることは、「歌う」と言う行為、出来れば大和言葉
を通して、大和心を伝える事である。
本当は衣服支援もしたいのだが、欲張ってはいけない。
自分の力量で出来ることしか、出来ないのだから・・・
こつこつと、続けたい・・・・
ただ、それだけを思って活動している。
いいや、しばらく心が死んでいたので、再び活動を始めた
ばかりである。いや、始めようとしている。
たった一人の思いが、死ぬまでにこの世で何処まで
繋がるのであろうか・・・・
少数民族の村人たちの考え方である。
伝統を忘れないことは、日本人と言う民族の心性を
忘れないということである。
それが、大和心だと思っている。
「歌う」という行為、それは、私が歌うこともあれば
人に気持ちよく歌ってもらうこともある。
私に出来ることは、「歌う」と言う行為、出来れば大和言葉
を通して、大和心を伝える事である。
本当は衣服支援もしたいのだが、欲張ってはいけない。
自分の力量で出来ることしか、出来ないのだから・・・
こつこつと、続けたい・・・・